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成果物

平川秀幸・教授



現代社会におけるリスクの問題について
プログラムへの期待
社会の将来像について
プログラムにおける教育方法について
対話の取り組みについて



現代社会におけるリスクの問題について


私自身はもともと、学部と最初の修士課程までは物理を専攻していました。バリバリの理系だったのですが、その後に文転をしまして、哲学の分野に移りました。科学哲学というものを研究して二つ目の修士号を取り、その後さらに博士課程に進んで、哲学からもう少し枠を広げて、科学、技術そして社会の関わりを研究する、科学技術社会論という分野に枠を広げていきました。その中で私自身がずっとテーマとしている問題は、現代社会におけるリスクの問題です。

しばしばリスク社会という言い方もされますが、原子力や放射線の問題など、科学技術の進歩は利益とともにさまざまなリスクを生み出してきました。そうしたリスクを社会の中でどのように扱っていけばいいのか。特に、リスクをめぐる政策、さらに、リスクを生み出してしまう技術や科学をどのようにして人間社会がハンドルをつけて動かしていくのか、方向づけていけるのかということ、また、政策決定や政策が科学に対してどういう影響を与えるのかということに関心を持っています。そういった政策決定、科学が関連するリスク、例えば環境問題や食品安全を考える時には、当然ながらさまざまな科学的エビデンスというものが非常に重要です。そうした科学的なエビデンスを政策の中でどう生かせるのか、どう生かさなければならないのかといった問題、そういう意味での科学と政策との間の相互作用に興味を持っています。

それと同時にもう一つ大きな問題は、通常は政策というと行政、議会、政府と、それからあと専門家集団ということになるのですが、その政策決定の中にもっと広く、様々な利害関係者や、一般の市民がどう関わっていけるのかということです。様々な期待がある一方、様々な懸念・心配事もあるわけですが、そういう声をどのようにして政策決定の中に反映できるのか。そういう観点で、政策のための科学で特に充実したいのは、政策決定をする時にどのようにして学問の中に科学を入れてくるか、学問というのは単純に理科系の自然科学だけではなくて、人文科学、社会科学も含めて、学問の知恵をどのように政策に反映できるのかということです。社会の側の様々な問題意識や価値観、様々な知恵や知識があるわけですが、それらをどう政策の中に反映できるのか。そういうことを、政策のための科学の中では重視したいと考えています。特に私自身が関心を持っていたのは遺伝子組み換えの問題、それから2000年代に入ってからというのは、日本でもBSE(牛海綿状脳症;Bovine Spongiform Encephalopathy)が発生しましたので、BSEの問題も追いかけてきました。



プログラムへの期待


私だけではなくて、このプロジェクトに参加する他の先生方も含め、様々なところでこういう取り組みや研究は行われてきましたし、いろいろな実践・社会実験的なことも行われていたのですが、文部科学省の大きな方向性として、それを実際の政策に活かしたり、またそれを活かせるような人材を育てていこうということが走り出したので、これからは研究と政策の世界がもう少しうまく接近して、つながっていくのかなと。そこはすごく大きな違いになってくるなと思います。

物事を専門家が決める、あるいは官僚・政治家が決めるといった場合でも、それぞれが持っている視野、知恵や知識、価値観というのは、どうしてもその人たち個人のもの、あるいは専門分野に固有のものであって、それ以外の見方、それ以外の感じ方、考え方というものはなかなか見えてこないのですね。それぞれの枠を超えていくためには、やはり自分たちとは異質な人たち、異質な専門や、異質な生活、仕事をしている人たちと交わらないと見えてこない。そうしないとその政策というもの、あるいは政策を反映して出てくる科学技術の様々な技術・テクノロジーというものも非常に一面的なものになりがちです。そういう偏りを超えていくためには、自分たちとは異なる見方、考え方をする人たちと対話をすることが重要になってくると考えています。

サイエンスショップは、もともとは大学の外部、例えばNGOとか行政から様々な依頼を受けて調査をするということがミッションなのです。今の日本の大学はいろいろ忙しくてこうした調査をすることが難しいので、もう少しサイエンスショップの役割を広げて、社会の中で中立的という信頼を得ている存在として、一般市民、様々な利害関係者、また専門家や行政や企業、そういう人たちとの対話の場を作る役割を果たす窓口として、サイエンスショップを機能させていきたいと考えています。



社会の将来像について


先程は政策を決めていくという意味で言いましたが、大上段に振りかぶった国の政策という場面ではなくても、他の場面でも物事を決めていく、考えていくという時には、自分の考え方の枠組みというものを超えていく必要があると思います。見方の違う、異なる人の見方や感じ方、考え方から学ばなければいけない。その意味では対話というものは、いろいろな場面で必要であろうと思います。さらに技術や科学に関する対話というものも、何かすごく整えられた場所、例えば行政が主催するだけではなくて、もっとリラックスした場、最近ではサイエンスカフェなども広まってきていますけれども、もっとリラックスして日常に近い場の中で技術や科学に関する対話、あるいはもっとくだけた形でいえば会話ですね、そういうことができるような、そういうことが広がるような社会であれば、技術や科学に対する人々の考え方や感じ方、さまざまな見方も育ってきて、それによって制度、あるいは世論が豊かになってくるのではないか、と考えています。それによって多角的な見方が出てくる。世論が成熟するのは、必ずしも何かひとつの意見・考え方に収斂していくことではなくて、技術に関しては賛成・反対というふうに二極に分かれてしまいがちですが、そうではなくて、その間の様々な考え方、その二極とは違う角度から物事を見るような、すごく多角的な考え方というものが出てくる。そういうことが社会としても文化としても豊かなことだと思います。そういう形で対話というものが広がるといいなと考えています。

基本的には社会というものは、もともと多様な人間がいるので、発散していくことが当たり前だと思います。しかし、いざ政策を決めなければいけない時には何らかの形で収束させなければいけない、決めなくてはいけないわけです。決める前にできる限り意見の幅や考え方の幅というものを踏まえた上で、決めたほうがいいだろうと。社会自体は多様であることが当たり前で、決める時にはどこかでエイヤというふうに決める。その時にできる限り、その決定というものが社会の中で様々な見方、考え方をする人たちにとって受け入れられやすいもの、万が一その政策が失敗した場合でもその失敗というのが受け入れられやすいようなものにするためにも、多様な見方というものをまず政策の中に反映させる、入れていくと。もちろん全部反映しきれるわけではないですが、それをまず踏まえた上で政策を決めていくということが大事だと考えています。



プログラムにおける教育方法について


自分と見方の違う、考え方の違う人たちと対話する、議論する、それによって自分の見方や持っている限界、有効性、また、他の人が持っている見方や考え方の有効性を気づいていく。そうしたそれぞれ違う見方をうまく組み合わせ、活かしていくことで社会が成り立っていく、うまく動いていく。そういうことの、ひな形的なものが経験できる場というのを授業の中で作りたいと考えています。その意味では、授業であるひとつのテーマを与えて、その問題・テーマをそれぞれが持っている専門性やいろいろな見方・考え方を使って、多角的に分析して、議論して答えを探っていくという、そういう形での作業ができる授業を考えています。

学生に期待することは、自分と違う見方や考え方に触れることでワクワクできる人、それを楽しめて、そういう異なる見方から学んだり、自分が変わっていける人、またそのために人の話を聞くのが好きな人、そういう学生たちに来てもらえたらなと考えています。

いきなり対話するのは難しいと思います。いきなり対話の場で一緒に顔を合わせても、最初はケンカになるとかいろいろ議論にならないと思うので、まずはそれぞれの場の考え方の中で、違う見方を学んでみるという姿勢を作ってみることです。あるいは実際に賛成・反対という人たちが議論する場合、以前にあるところで実際に行ったのですが、あえてクローズドにしてしまう。外部からはそこで誰がどういう発言をしたかがわからないような場、本音がぶっちゃけられるような、本音を出して議論できるような場を作ってみる。そうするとそれぞれが自分たちの立場に縛られない、少し自由な考え方ができるようになるということはあるだろうと考えています。

実社会だと、生活だったり仕事だったり、いろいろな立場・利害を背負っているので、柔軟になりにくい立場にそれぞれがあると思います。それに対して学生の場合はまだまだそういう現実社会の利害をそんなに背負っていないので、学生のほうが議論しやすいでしょうね。

今回政策のための科学では、エビデンス、証拠というものを非常に重視しています。今までの科学技術政策では、科学技術の政策に限らずですが、エビデンスというものを重視しないで、政策というものが決められてきたという背景、それに対する反省として生まれてきたという部分があって、それは非常に大きなプラス・前進だと思うのですね。それと同時に、エビデンスというものをすごく狭くとってしまって、それこそ客観的に何らかの数字として、数量化して出てくるようなものだけをエビデンスとしてとらえてしまうと狭くなってしまう可能性がある。そういうものだけではなくて、もう少しエビデンスというものを広くとって、さまざまな対話の活動であるとか、必ずしも直接的な対話ではないとしても、社会の側で人々がそれぞれの立場・それぞれの考え方で、どういう見方・どういう価値観で、科学技術に対してどういう期待を持っていたり、反対・懸念を持っていたりするのか、そうしたものをうまく言語化して、それを実際の政策の中に使っていく、というようなエビデンスの使い方、あり方もあると思います。量的なエビデンス、数量的なエビデンスに対して、質的なエビデンスというものも同時に活用できるようにしていくことが重要かなと考えています。英語で言えば、ウイットネス、証言、あるいは、オピニオンと言うことです。

それ自体は日本の中でも様々な場所で行われてきた政策だと思います。例えば、地域社会の町づくり、地域の政策を何かしようとする時には、実際に住民たちが参加して、その意志決定に加わる。そこでさまざまな意見を出し合うことは、ローカルなコミュニティーでは割と行われてきました。そうしたものを、より大きい枠、国レベルでもできるようにする必要があるでしょう。さらに、例えばイギリス政府が行っている取り組みとして、パブリックコメントがあります。日本でもパブリックコメント自体は行っているのですが、日本のパブリックコメントは通常、こういう政策の案が出ています、これに対して動いて下さい、というだけです。

例えばこの間も、食品中の放射性物質の基準案へのパブリックコメントがありました。いちおうコメントするための法律とか基準の案と、関連する資料というものは全部公開されていますが、単にこれについてコメントを下さいと投げかけるだけです。それに対してイギリス政府は、例えば気候変動・温暖化の問題に関して、そのパブリックコメントを募集する政府の側で細かく設問を作るのですね。この法案のここの部分はこういう意図で作られているけれども、これに対してみなさんはどう考えますか、ご意見下さいとか、20項目くらいに分けて設問を立てて、それぞれの設問に対して具体的に答えていくことで、その政策を作る側、決める側にとっても有用な情報が得られるし、意見を出す側の方もピンポイントで情報を出せる。そういうやり方をパブリックコメントで行っています。直接的な対話ではないですが、大きな意味での対話の形になっているわけです。そういう仕掛けもありうるだろうと思いますし、そういう形でエビデンスというものを作っていくこともできるということですね。



対話の取り組みについて


先ほど量的と質的とを分けましたが、こういう形だとその両方がミックスされるわけですね。例えば、ある法案の中のここの部分に関しては、これを肯定的にとらえている人がどれくらいの割合いるということも見えつつ、どういう考え方で答えているのか、どういう理屈、理由で賛成しているのか、あるいは反対しているのかというようなロジックの部分まで見えてきます。手間暇をかけてちゃんと行っていけばできるということです。

また、社会の視点や人文社会科学の取り組みが重要だという例として、「ゴールデン・ライス
という、遺伝子組み換え作物の中で有名な事例があります。ビタミンAの前駆体であるベータカロチンを多く含んだ黄色い色の米で、それゆえにゴールデン・ライスという名前がついているのですが、これは遺伝子組み換えで開発された新しい品種の米です。発展途上国でいまビタミンA不足のために多くの子供たちが失明したりしているのですが、そうしたビタミンA不足を解消するためにビタミンAをつくるベータカロチンを多く含んだゴールデン・ライスを開発して、これを途上国で普及させれば、お米を食べるだけでビタミンAが供給されて、失明の悲劇を減らすことができる。そういう、すごく善意のもとで開発されたものです。

ところがこれに対しては様々な批判、いわゆる安全性の問題ではない形の批判があります。例えば、ビタミンAが不足している問題というのは、単純にビタミンAが不足しているだけではなくて、栄養素全般が不足している。その問題は、結局はビタミンA、ベータカロチンを含むような緑黄色野菜を作れるような農地が減ってしまっていることから来ている。緑黄色野菜を作って地元の人たちが食べるような国内生産消費用の農地が減らされる一方で、その分が、例えば先進国、日本やアメリカ、ヨーロッパに輸出する農作物や、花とかコーヒーなどの生産のために豊かな農地が振り分けられていて、そのために食料全般が不足して、ビタミンAも不足しているという状況が起きているわけですね。そうすると、単純に米だけを栽培してもあまり栄養不足・食糧不足全般の問題の解決にはならない。しかも不足しているのはビタミンAだけではないので、それだけでは解決にならない。ビタミンAが不足しているのなら、ビタミンAを補給できるような米を作ればいいだろうという一対一的な発想ではなくて、本来取り組むべきはもっと多面的に、技術的な開発だけではなくて、その社会のあり方、国の農業政策であったり、あるいは先進国との関係であったり、それは解決しづらい問題ではあるのですが、そうしたところから取り組んでいかなければ本当の問題解決にはならない。そういうことを考えるためにも、このゴールデン・ライスの例は技術の可能性を語ってくれると同時に、その大きな限界・偏りというものも学べる重要な事例です。