遺伝子組換え農作物を考えるコンセンサス会議・実践インタビュー

コンセンサス会議のきっかけ

私がコンセンサス会議を知ったのは、イギリスに滞在した1994年です。そのとき、イギリスでは初となるコンセンサス会議の準備が行われていました。初めは、なぜ市民を集めて議論するのか疑問でしたが、ヨーロッパのコンセンサス会議について調べている人たちと話し、理解を深めていくうちに、これは日本でもやるべきだと確信したんです。

帰国後、コンセンサス会議について調べていると、科学技術社会学を専門としている東京電機大学の若松征男さんが日本でもやろうと私に声をかけてくださいました。それがきっかけとなって、日本で開催するための活動を開始しました。イギリスに行く前であれば、コンセンサス会議のような実践的なことはしなかったと思います。私たち日本の研究者は、西欧の先進事例を調査し紹介するだけで、学問の成果を実践的に展開することをしてきませんでした。日本の大学制度は、西洋の学問を翻訳することが伝統的に重要視されてきましたからね。

しかし社会実験をする取り組みを日本でも行うべきだと思うのです。まず自分たちの考えでやってみて、そしてオリジナルを持った上で海外に調査に行くのはいい。何も考えを持たず調査に行って、考え方などすべてを影響されてしまうのは、良くない傾向です。これからは西欧に追随するのではなく、自分たちで問題を見つけ、試行錯誤を繰り返しながら、解決するためのプロセスを実施していく必要があると思います。


日本人にはできないと言われ続けた議論を大阪で

イギリスのコンセンサス会議では、事前に市民パネルを集めて一人ひとり面接をするんです。なぜそういったことをするのか聞くと、「マッドかどうか調べるためだ」と言っていました。市民をランダムに集めたら議論にならないんじゃないかという不安を、イギリスの専門家たちも持っていたんです。

私たちにも同様の不安がありました。その上、私たちは上の世代から、こういうことは西洋人だからできるのであって、日本人は議論できない、現に大学の授業でも日本の学生は質問しない、だからコンセンサス会議は日本では無理だと何度も言われ続けてきた。ですからやはり不安はありました。そのため第1回の開催にあたっては、よく喋る人が日本一多いと思える大阪を選びました。私は名古屋、若松さんは東京に住んでいたにも関わらず、わざわざ大阪で遺伝子治療をテーマに開催したのはそれが理由です。

実施後、大阪の人たちからは「こんなおもしろいことはない。もっとやってくれ」という声が聞けました。それで確信を持てたので、翌年には別のテーマを設定して東京で行いました。実施してみて気づいたのは、私たちの社会の中で、ほかの人と一緒にまともな議論をしてみたい人はたくさんいるということです。社会の側がそういったチャンネルをつくってこなかったということがよくわかりました。


それぞれが緊張して始まった「遺伝子組換え農作物を考えるコンセンサス会議」

今までのコンセンサス会議では予算もなく、広報も十分にできなかったので、知人に声をかけて集まってもらっていました。そうすると、どうしても集まった人々には偏りがある。「遺伝子組換え農作物を考えるコンセンサス会議」では、初めて市民パネルを公募することができました。また、新聞の社説欄でも取り上げてもらったこともあって、最終的には全国から479名の応募がありました。そこから年齢、性別、出身地域のバランスがとれるようにして、ランダムに十数名を選出。ただ農業をしている人を必ず1人は選ぶようにしました。今回のテーマから必要と考えたからです。

最初の会合では私も参加者も、主催した農林水産省の役人の方も緊張していました。役人の方は、私が農林水産省を叩くために会議を誘導するんじゃないかと不安に思い、一方で市民は私が農林水産省の手先で、懐柔されるんじゃないかと疑っている。私自身は農林水産省が裏のシナリオを動かしているのではと心配している。三者がお互いに緊張しながら始まるんです。でも会議が進むにつれて、不信感はなくなっていったように思います。私は、市民パネルの方々がユーモアを混ぜて自己紹介できる人たちだったので安心することができました。参加者は、今まで会ったことのない人と議論してもいいと思って、時間をかけて準備してきてくださった方々ですから、今思えば当然だったのかもしれません。


メタコンセンサスという答え

デンマークのコンセンサス会議とは異なり、日本での会議はコンセンサス(合意)の形成を目的にはしていませんでした。実際、最後まで徹底して遺伝子組換え技術に大反対する人がいましたから全員の意見は一致しなかったんです。ただ何時間もかけて議論していると、どうしてこの人はここまで反対するのか、その理由をみんなが知りたがります。その方の言い分は、自分の子どもにアトピーがあり、医師から、添加物の入った食べ物を避けるように指導されており、この上必ずしも必要とは思えない遺伝子組換え食品をさらにバラまくことは許したくないというものでした。

その理由を聞いて、ほとんどの人が納得していました。しかし、だからといってこの意見を全面的に肯定はできず、コンセンサスにはなり得ない。するとある市民パネルの方が「我々はあなたの意見に完全には同調できないですが、あなたの意見を無かったことにするのも耐え難い。だから少数意見として併記したいが、どうだろうか」と提案し、少数派の方は「それで結構です。公平に扱ってもらったことに感謝します」と応じました。意見の中身ではなく、意見の扱い方におけるコンセンサスが形成された瞬間です。

これはメタコンセンサスですよね。こういった方法で少数派の意見を公平に取り扱う仕組みを社会は持っていない。政治的な決着をつけようとすれば多数決を取らざるを得ませんが、政治的なコンセンサスをつける前には必要な方法だと思います。


社会の変化と共に変わる人々の意識

誰しも、議論することは大切だと言われた記憶があると思います。しかしそのための機会があっても、それは同じ学校や会社というような、基本的には固定されたメンバーで行われていました。それゆえ、自分とまったく関わりがない人と議論するということをあまりやってきませんでした。また、そういった仕組みを社会も、私たちもつくってこなかった。

ただ1995年の阪神・淡路大震災では、誰に命令されるでもなく、地縁も血縁もない人たちが被災地に集まりました。彼らは被災地というイシューに集まり、初めて出会った人たちです。そういった行動が日本人にもできることがわかったのは、あの震災から得たボジティブな側面でした。ちょうどその頃から、人々の感覚が変わってきていたように思います。そういう社会の変化が研究者の端くれである私にも感染したから、コンセンサス会議を実施するモチベーションが持てたのだと考えています。

社会にはエリートと素人と呼ばれる層がありますが、その構図は、問題ごとに変わることをリアルに感じたのもその時期でした。例えば、遺伝子組換えの農作物のテーマでは専門家の側にいる人も、金融の問題に関しては素人です。ある問題を考えるために一番適切な専門性を持った人たちを集めるとすれば、大学だけではなくて、産業界やいろんな所に声をかけないといけません。そういった固定された枠組みを越えて、適切な人材をうまく動かせる社会を機能させるにはどうすればいいか、今後の課題だと思っています。


● 小林傳司・教授
大阪大学
コミュニケーションデザイン・センター