教員紹介

メンバー一覧

大阪大学

  • 小林 傳司 大阪大学 COデザインセンター 教授 科学哲学、科学技術社会論
  • 山中 浩司 大阪大学大学院人間科学研究科 教授 科学社会学、医療社会史、医療社会学、技術社会学
  • 加藤 和人 大阪大学大学院医学系研究科 教授 生命倫理、医学倫理、科学コミュニケーション論
  • 瀬戸山 晃一 大阪大学大学院法学研究科・高等司法研究科 客員教授 法と医療・生命倫理、法理学、法哲学、行動心理学的「法と経済学」
  • 平川 秀幸 大阪大学COデザインセンター 教授 科学技術社会論
  • 岸本 充生 大阪大学データビリティフロンティア機構 教授 リスク評価、社会経済分析
  • 神里 達博 大阪大学COデザインセンター 客員教授 科学史、科学技術社会論
  • 八木 絵香 大阪大学COデザインセンター 准教授 科学技術社会論、ヒューマンファクター研究
  • 中村 征樹 大阪大学全学教育推進機構 准教授 研究倫理、科学技術社会論、科学技術史、科学コミュニケーション
  • 渡邉 浩崇 大阪大学COデザインセンター 特任准教授 国際政治学、外交史、宇宙政策、宇宙法
  • 辻田 俊哉 大阪大学COデザインセンター 講師 国際政治学、国際安全保障論
  • 工藤 充 大阪大学COデザインセンター 特任講師 科学技術社会論、科学コミュニケーション論
  • 水町 衣里 大阪大学COデザインセンター 特任助教 科学コミュニケーション論、科学教育
  • 小林 万里絵 大阪大学COデザインセンター 特任研究員(非常勤)
  • 鍛治 一郎 大阪大学COデザインセンター 特任研究員(非常勤) 国際政治学、外交史
  • 若林 魁人 大阪大学COデザインセンター 特任研究員(非常勤)


  • 京都大学

  • 川上 浩司 京都大学大学院医学研究科 教授(ユニット長) 薬剤疫学、医療技術評価、レギュラトリーサイエンス
  • 小山田 耕二 京都大学学術情報メディアセンター 教授(副ユニット長) 可視化
  • 依田 高典 京都大学大学院経済学研究科 教授 応用経済学
  • カール・ベッカー 京都大学学際融合教育研究推進センター 特任教授 倫理学、ターミナルケア、死生学
  • 末松 千尋 京都大学経営管理大学院 教授 IT、事業創成
  • 富田 直秀 京都大学大学院工学研究科 教授 医療工学、 QOLデザイン
  • 中山 健夫 京都大学大学院医学研究科 教授 健康情報学、疫学、ヘルスコミュニケーション
  • 二木 史朗 京都大学化学研究所 教授 薬学、生体機能化学
  • 佐野 亘 京都大学大学院人間・環境学研究科 教授 政治理論、公共政策
  • 宮川 恒 京都大学大学院農学研究科 教授 農薬化学、天然物化学
  • 吉田 恭 京都大学経営管理大学院 特定教授 都市計画、まちづくり
  • 伊勢田 哲治 京都大学大学院文学研究科 准教授 科学哲学、倫理学
  • 大手 信人 京都大学大学院情報学研究科 教授 生態系生態学、森林水文学
  • 廣井 良典 京都大学こころの未来研究センター 教授 公共政策、医療・社会保障、持続可能な福祉社会
  • 宮野 公樹 京都大学学際融合教育研究推進センター 准教授 大学論、学問論、政策哲学
  • 田渕 敬一 京都大学iPS細胞研究所 准教授 科学技術・イノベーション政策
  • 関根 仁博 京都大学経済研究所 特定准教授 科学技術・イノベーション政策
  • 市川 正敏 京都大学大学院理学研究科 講師 生命現象の物理、ソフトマター物理
  • 井出 和希 学際融合教育研究推進センター 学融合フェロー 薬学、疫学、社会医学
  • 祐野 恵 京都大学学際融合教育研究推進センター 特定助教 公共政策、地方自治、地方議会
  • 小林傳司・教授



    「政策のための科学」について
    科学技術の倫理的・法的・社会的課題(ELSI)について
    公共的関与(Public Engagement)について
    テクノロジーアセスメントについて
    熟議を組み込んだ参加型の議論の必要性
    教育プログラムについて



    「政策のための科学」について


    これは「政策のための科学」と呼ばれていますが、それは略称で、正しくは「科学技術イノベーション政策における『政策のための科学』」といって、科学技術政策の中から生まれてきた話なのです。今までは科学技術政策というと、いかに科学技術を振興させるのかという、政策のことだといわれていたのですね。2011年4月から始まった第四期の科学技術基本計画において、科学技術政策は、単に科学技術の振興を目指すのではなくて、社会公共のための政策として考えるのだと、こういう言い方をしたわけです。考えてみれば、科学技術のための予算というのは税金をどんどん投入しているわけですから、その税金を使った研究というのがどのぐらい社会にとって価値を生んでいるのかという観点から、説明を求められる時代というのが来ているわけですね。国家財政がこれほど厳しくても、日本はずっと科学技術予算というのは頑張ってきたわけです。あまり減らさずに、逆に少しずつ増やすということを行ってきたわけですから、それが何のためかということが問われるという、そういう時代になっています。

    今までは、科学技術政策というと、重点的にこの分野の振興をしましょうとか、この分野を発展させましょうという形で分野を決めていた。その分野は科学技術の専門分野という形で決めてきたわけですが、この第四期の計画ではそうではなくて、今われわれの社会が抱えている課題というものがあって、その課題を解決するにはどういうような分野の科学技術が動員されるべきか、そういう問題の立て方に切り替えたわけですね。

    その中で、では科学技術政策をどうやって人々が納得する形で、理論的に整合的な政策が組めるのかということから、「科学技術イノベーション政策における『政策のための科学』」というプログラムが考えられてきたという背景があります。阪大と京大でこれから行っていくものは、今言ったような意味での政策のための科学を全部できるわけではないので、やはりその拠点の特色というものを出していかなければならないと思っています。



    科学技術の倫理的・法的・社会的課題(ELSI)について


    われわれが提案したのは、ELSIというものを中心としたプログラムです。ELSIとは、 “Ethical、Legal、Social Issues”のことで、倫理的、法的、そして社会的な論点ということです。科学技術がこれだけ発展してきますと、社会のいたるところに浸透していますので、自動的に科学技術の成果が社会に対して利益とか善なる効果、プラスの効果を生むというふうにはならなくなってきていて、予想しがたいようなマイナスの効果も出てきていますし、さまざまな問題も出てくる。だからそういうことをきちっと考えないと、科学技術をわれわれの社会はうまく使えないだろうと。これは最近だとライフサイエンスなどで非常に話題になっている問題群で、人間の遺伝情報を扱う、あるいは人間の身体そのものを実験的な研究によって改変する、そういうことが技術的にも理論的にも可能になってきているわけですが、やはり対象は人間ですので、その人間をいじるときにはさまざまな倫理的な配慮というものが要ります。

    それから、そこで生まれてきた知識を社会で活用する時には、社会全体がその知識の有効性というか、そういうものが本当に社会にとってプラスになるとみんなが納得しなければ、研究者がいくら善かれと思っても、それだけでは知識というのはうまく使えないわけですね。そういうタイプの問題は、ライフサイエンスに典型的ですが、それ以外の分野でもいろいろと出てくるだろう、そこをどうするのかという問題があるのです。問題群としていえばELSIになりますし、そういう問題を社会の中でどういうふうに調整していくのかという考え方を説明すると、“Regulatory Science”という言い方になるかもしれません。

    “Regulatory Science”というのは、通常「規制科学」と訳しますが、本来の意味は、科学的な厳密さでもって生み出される知識を、社会においてみんなが納得する社会的な正当性を持った形で使いこなすための調整のための学問、という意味です。その調整の一つの例として、ガイドラインとか規制、法律などが生まれてきますが、それは結果であって、全体の考え方としてはその“Ethical、Legal、Social Issues”を社会的な観点から考えて、そして科学の価値をどのように調整しながらうまく使えるようにしていくのかという問題の立て方になります。そういうことを考えた時に、具体的な手法としてどんなことを研究するのかというと、人文科学的な研究というものが当然あるわけですが、大事なのは研究の現場との距離感です。あまりにも研究の現場から遠いところで理屈だけこね回すというやり方はあまり意味がないし、研究者にとってもリアリティを感じてもらえないので、研究者が現実に研究している場面と向き合った形で人文社会科学的な研究をすることがプログラムの大事なポイントだと思っています。



    公共的関与(Public Engagement)について


    それからもう一つは、いま“Regulatory Science”ということで科学というものを社会の価値とどのように調整するのかという問題の立て方をしましたが、誰の声を聞いてその調整作業をするのかという時に、やはり社会の中で科学技術を使うわけですから、科学者の声だけというわけにはいかないですね。多様な社会の声というものをどのようにしてうまく聞き取っていくのかという作業もこれから必要になってくるでしょう。その多様な声の中にはいろいろなパターンがあって、消費者としての声もあるでしょうし、例えば患者というような形の声の出し方もあるだろうし、ユーザーとか、あるいはもっとつかみどころのない言い方ですけれども一般市民とかですね、そういうところでの声の出し方とか、様々な声の出し方がある。そういう様々な多様な声を科学者の声とすり合わせて政策的な、あるいは調整というか、社会的価値と科学的価値の調整の部分に向けて提案していくような、そういう活動をわれわれは “Public Engagement”(公共的関与)という言い方をしています。多様なセクターが政策の形成レベルに参加する、あるいは科学技術の評価に参加する、そういうこともこれから大事になってくるだろうし、この面は日本は欧米に比べてやや遅れ気味ですので、何とか日本の中で根づかせることも目指しています。

    こういう分野に携わるようになった一番のきっかけは、イギリスに行ったことだと思います。科学哲学を勉強しにイギリスに行ったのですが、せっかく日本から来たのだから何か喋りなさい、と言われた時ですね。その時にイギリス人の書いた科学の論文はよく知っているのですが、日本の科学者とまともに話したことがなかった。日本の科学の現状を知らなかった。でもイギリス人はそれを聞きたがっている。あたりまえですね。その時に私は誰に向けて物事を考えて文章を書いていたのだろうな、とちょっと深刻に悩み、少し不安な気分になりました。

    1993年頃ですが、その頃イギリスではBSE(牛海綿状脳症;Bovine Spongiform Encephalopathy)の問題が起きていました。遺伝子組み換えでも、もめていました。そういうことは連日新聞に載っているわけですね。ちょうど帰国する直前にコンセンサス会議という市民参加型のテクノロジーアセスメントの会議をイギリスが行おうとしていて、そのテーマは遺伝子組み換え農作物でした。それを見ながら、正直私は意味がわからなかった。つまり普通の市民を集めて、遺伝子組み換えというかなりテクニカルな技術的な話も市民に議論してもらう。専門家と討議してもらう。それに何の意味があるのか、まったく分かりませんでした。しかし、準備の様子とか、なぜこういうこと行っているのか、いろいろと聞いたり本を読んで調べたりしているうちに、「ああひょっとすると面白いかもしれない」と思いました。そのプロジェクトのチーフを務めているジョン・デュランという人間が、イギリスのテレビに出て、社会と科学技術の間の関係をもう一回契約で結び直す、“New Contract”という言い方で、テレビで説明していたのですね。つまり今までは専門家がよかれと思っていれば、その専門家に全部おまかせにしておけばよかった。だけどもこれからはそうではなくて、人々の声と専門家の意向との間で「新しい契約」をつくるという作業をしなければ、科学技術というのは社会の中でうまく使えないのだ、というメッセージを言っていたわけです。それを“New Contract”と言っていた。それが今も記憶に残っています。私はそれまで、そんなことを考えたこともなかったのですが、「面白いな」と思いました。



    テクノロジーアセスメントについて


    テクノロジーアセスメントを行っていない国というのは、先進国では日本ぐらいかもしれませんね。他の国はだいたい何らかの形で行ってきたわけで、なぜそれが要らないのか、という話になると思います。私はやっぱり要ると思いますね。原子力発電所などはまったくテクノロジーアセスメントができていなかったということの例だと思いますが、社会の中でこれだけ科学技術を使う時に、誰がそこまでやってくれと頼んだのかという問いが生まれやすくなっています。

    1960年代くらいまでは、研究開発をしてそれが出てくるとみんな喜んでいました。「三種の神器」というものが爆発的に売れた時代に私は子供時代を過ごしました。工業製品というのはピカピカに輝いていましたね。今の学生に全然分かってもらえないのは、粉末のオレンジジュースと本当にみかんを搾ったジュースとを出されたら、当時の私は粉末ジュースの方が断然かっこよく見えていたという記憶があります。でも今の若い世代は絶対そう思わないですね。なぜそれがかっこよく見えていたのかというと、工業製品だったからです。でも今は逆ではないですか。ロハスとか、有機、天然とか。そちらのほうに価値観が動いていますね。そういう状況の中で、しかし現実は60年代どころか、はるかに科学技術に満ちあふれた生活をしているわけです。自然が満ちあふれていて、それこそ「ボットン」トイレで、不便で、という生活の中で科学技術とか工業製品に憧れを持って生きていた時代、そしてそれが達成されてしまって、ありとあらゆるところに科学技術が浸透していて、逆にそこから離れたような価値を高く評価したいというメンタリティが出てきている。この感覚の違いですね。前者の感覚というのは今の中国ですね。だからモノがほしいわけです。購買欲がものすごくある。でも今、日本人で50万円渡しますが絶対買いたいものは何ですか、と言われてみんなが欲しがるような商品はないではないですか。ほとんどみんな家の中にあるわけで、モノを減らしたいと思っているし、むしろ温泉旅行に行きたいとか、サービスの方に興味がある。そういう時代の中で、科学技術をわれわれがどう使うのかということはもう一回考え直すべきだと思います。

    その時に、例えばライフサイエンスで、ひたすら寿命を延ばすという方向の技術だけを追求していいのか。多分われわれがこれから考えなければいけないのは、正しく死ぬ死に方なのですね。死亡確率が100%であるということは宿命ですから、そうするとうまく死んで行けるのかということにおそらく人々の関心は移っていくだろうと思いますね。研究もそういう部分がこれから必要になるかもしれないじゃないですか。つまりどういうことが社会にとっての課題で、どういう研究を社会が望んでいるのかを示すチャンネルを作って、そして研究者もそのチャンネルから出てきた声を尊重した研究をするという、そういう部分があってもいいのではないかということです。それはテクノロジーアセスメントの一種だと思います。今のままだと、研究者がよかれと思うことが本当に社会にとって良いことなのか、ということを全然チェックしていません。研究費だけがそこに注ぎ込まれていくという構造は、やはり見直す時期なのだろうと思います。ただ、これはすごく難しい問題です。



    熟議を組み込んだ参加型の議論の必要性


    具体的な活動ですが、結局日本で今まで社会の声を聞かなくてはいけないという時は、アンケート調査をしてきたのですね。あるいはパブリックコメントみたいなものが行われるのですけれど、数は多く取れるのかもしれませんが、そういう声を信用していいのかと言うことです。実は政策担当者も分かっています。例えばアンケート調査だと、事前によく考えたわけでもなくて反射的に丸をつけているだけだ、ということは、みんな分かっているわけです。それが10万人分集まったとしてもどうなのかという話です。パブリックコメントはパブリックコメントで、やはり動員合戦です。そういう構造をどうやって超えて、政策担当者が社会的に物事を決定する時に安心してというか、これは参考になる意見だよな、と言える意見をどうやって作り出すのかということなのだと思います。

    政策のための科学の最大のポイントは、そういう管理政策を決めていく時に、どういうふうな根拠に基づいて決めればいいのかというところの根拠をまともにすることですから、その根拠として使えるような社会の声をどのように取り出すのかという問題にわれわれの拠点はひとつ課題を持つことになります。そのためにはある種の参加型の仕組みというものを、いろいろと実践もしてきたし日本で一番経験を蓄積している組織だと思いますから、それを実際適用して開発していくことだろうと思います。

    熟議を組み込んだ参加型の議論をするということです。その手法はかなり開発されてきたので、あとは実際に実施してみて、出てきた結果をきちっと知的に加工して、社会の声として意志決定の時に使えるような、そういうものに組み上げることができるのかということが大事なポイントだろうと思います。



    教育プログラムについて


    大阪大学の場合には副プログラムや副専攻といった仕組みで、大学院生に対して自分の所属している専攻の教育や学習とは別に、一つのまとまった形の勉強をするようなものを取ることができるようになっています。ですからこのプログラムは、当面はまず副専攻プログラムという形で、様々な分野の専門を持っている学生たちに、科学技術が社会に対してどういう役割を果たすのかという観点からの教育を与えて、政策的な感覚を持ちながら、しかし理工系の専門家であり、人文社会系の専門家であるという、そういう人間をまず作る、ということを行おうと思っています。分野間をつなぐ人材を作りたいということですね。どうしても特定の専門しか知らないので、それが社会とどう関わっているのか、あるいは違う分野とどう関わらなくてはいけないのかという、そういうところをつなぐことが必要だという感覚を与える教育、分野に閉じこもって深く学ぶだけではなく、横に広がる、つながっていく、そういう感覚を持った人間をまず作るということですね。

    専門家同士のつながりもすごく大事です。一つの専門分野を超えた研究プロジェクトは数多く出てきていますが、その時に研究分野間の「お作法」の違いをお互いに無自覚なままに一緒に研究をすると、けっこう厄介なことが起こるのですね。特に最近問題になっているのは、工学系とか理工系というのは人間をあまり扱ってこない研究をしてきたので、研究のお作法として、倫理的配慮というものに対する感覚はあまりシャープではないのですね。ところが医学系とか生命系というのは人間を扱ってきたので、IRB(治験審査委員会;Institutional Review Board)とか、研究の倫理性みたいなものを事前に審査し、研究する時もそれらを常に意識するということはかなり浸透している。しかし、一緒になった研究チームを作ると片方はその感覚がないということになって思わぬことを起こすこともあり得ます。そういう点でも分野間のお作法の違いというものが存在するということを、それぞれの分野の人間が知るということはものすごく大事です。日本では、そういう教育があまりできていない。

    日本だけではないと思いますが、独特のシニカルな感覚というものがエリートには強い。一般市民とか専門家ではない人に対しては、その人たちの能力をかなり低めに見積もるという習慣がある。そして、パニックに対する恐怖感というのを非常に強く持っているので、本当のことを言ったらえらいことになるのではないかと考えて、言葉使いとか表現を丸くして、それによって何となくオブラートに包んだような形の情報提供をしたがるのですね。そのことのリスクをあまり考えていないなということです。

    それはもう3.11の時によく分かったのではないですかと。あの時に中途半端にオブラートにくるんで、安全サイド側のほうの発言を言うことによって自分たちの信頼を本当に根底から傷つけたわけです。人々をどれくらい信頼するかという感覚、そこが問題だろうと思います。これはもちろん日本だけではなくて、他の国でも多かれ少なかれそういうことは起こりますが、そこの部分をもう少し変えないと。信頼が失われていることは、かなり大変なことです。信頼というのは二つの側面があって、能力がちゃんとあるのかという信頼もありますけれど、もうひとつはその人の意図ですね。「こいつはものすごく頭がいいけれども、悪い意図を持っている」という人間も世の中にいるわけですが、それと同時に「意図は良いけれど能力がない」というのも困るわけです。信頼というのはその両方の側面があるのですが、いま下手をすると能力も疑われ意図も疑われるということになりかねないので、そこは、よく言われる双方向性、ダイアログのようなものを入れていくこと以外に 信頼は回復しないだろうと思いますし、もう少し勇気を持って、取り組んでもらいたいと思いますね。研究者の中には、そういうことが大事だと思う人たちもだいぶ増えてきているような気がするので、そういう、次の世代を担う人たちをサポートして応援するというのも大事な仕事だと思っています。

    川上浩司・教授



    医学と「政策のための科学」について
    エビデンスの作り方について
    プログラムの特色について



    医学と「政策のための科学」について


    私自身は医者の免許を持っていて、基礎研究を行った後、アメリカの厚生省、FDA(U.S. Food and Drug Administration)といいますが、アメリカの健康行政に携わって役人をしていました。そういう中で、科学の力あるいは医学の力というのは、学問としてだけではなくて、それをどのようにして政策・行政につなげていくのか、ということについて、ずっと考えたりしてきたという経緯があります。

    この国は現時点では国民皆保険制度を持っていますけれども、社会として社会福祉の構造の中でそれを支えていかないといけないわけです。そういったことを両立させるために、医学の中ではエビデンスに基づいた医療というものが確立しています。一番低いエビデンスというのはえらい人の意見ですね。その後に様々な段階があって、一番高いエビデンスというのは、しっかりとした研究に基づいてメタ解析といって、しっかりとした解析がされたことをいいます。今ではさらにエビデンスの後には費用対効果ですね。費用対効果もかなり様々な手法で疫学や科学の力を用いて行っています。このような医学の考え方、方法というものを、他の学問でも演繹できないかというような、世界中まだ誰も行っていないような研究、あるいは取り組みになると思いますが、これにわれわれは取り組んでいきたいと思っています。



    エビデンスの作り方について


    エビデンスレベルというものがあります。エビデンスレベルというのは、日本でも今でも声が大きな人に引っぱられて政策行政を進めているかもしれませんが、それは一番低いとされています。一段から六段に上がって行くにあたっては、例えば今まで行ってきた医療行為、あるがままをとらえて、それを研究として記述していくという方法がありますし、さらにその上に行くと、介入研究といって、研究するという意図をもって医療行為を行って、AとBを比較してみるというような方法があります。それは臨床試験といいます。さらにそういった臨床試験を積み上げていくと、一番上の方のレベルでは、どういった患者さんにはどういった治療あるいは診断がよかったのかということに対して、かなり厳密に統計学的な解析というものを加えることができます。これがエビデンスの作り方であって、例えばわれわれ医療従事者というのは、そういったエビデンスに基づいて教科書ができて、そういう評価のもとに医療行為を行っているということになっているのですね。ですので、その作法というのはかなり厳密に作られていますし、人体に向かって学問が何をするのかということについて、かなりの世界的なコンセンサスが得られてきているところです。それがEBM、”Evidence-Based Medicine”(根拠に基づいた医療)といわれている領域です。

    そしてもう一つの領域というのが、エビデンスに基づいた医療を行った後で、実際にAとBのどちらがいいかが分かったとして、でも人体というのは、アメリカ人も日本人も体の大きさ目の色の違いこそあれ、基本的には同じ人間です。でも、違いもあります。何が違うのかというと、国によって社会構造が違うのです。死生観が違うし、GDP、所得も違うし、そして何よりも医療制度が違います。この国は国民皆保険ですが、イギリスみたいに税が財源の国もありますし、アメリカのように民間のほうがパイが多い国もあります。社会制度の中で、福祉制度の中で、どのようにAとBのどちらがいいかというのを費用に変えて見るのか、費用対効果があると考えるのか。こういった研究領域もここ10年くらいでずいぶん、医学の領域では進んできました。日本だとまだ端緒についたばかりです。こういったこともこれからはおそらく科学技術政策全体の中で、良い・悪い、それから費用対効果を考えて、リスクとベネフィットがどこにあるのかということをコントロールして解析していくという取り組みが必要だと思っています。世界の動勢や世界中の方々とお話をしていると、これがこれから絶対大事になるということは思いますね。

    医学という学問の上に立脚した医療という行為があります。人間を大きく70億人を二つに分けると、病気になっている人、患者と、病気になっていない人に分かれます。病気になっていない人が病気になっている人を支えることの仕組みというものが国民保険制度であり、様々な社会制度の中にビルトインされているのですね。もっと違った言葉で言えば、学問が社会につながっていて、それがわれわれみんなに必ず関係してくるのです。例えば電気、原子力、いろいろな問題があると思いますが、電気を使っていることに対して、日ごろ費用対効果や科学技術のことを考えて電気を使っている人なんていませんね。ところが医療に関しては、もし風邪ひいただけでも、何で風邪ひいたのだろうとか、あるいはどうすればこれは治るのだろうとか思いますね。特に死ぬような病気、ガンとか急性の肝臓の病気とかいうものであれば真剣に考えます。医学は、社会福祉に対するインパクトやつながりが非常に強かったので、そのような学問が進歩してきたのではないかと考えています。



    プログラムの特色について


    今回は政策のための科学の枠組みとしては、関西の拠点として大阪大学と京都大学という形で一緒に行うという取り組みとして採択されました。ですので、京都大学は研究が強い大学ですが、大阪大学の小林教授がこの分野では大変知見をお持ちの方でありますから、教育に関しては大阪大学と足並みを揃えて京都大学でもカリキュラムを作っていきたいというふうに思っています。

    京都大学の強みというのはやはり、ユニークネスですね。独創性がある研究の分野を開拓し、それを発展させるということにあると思っています。これは私見ですが、先ほどお話ししたような医学のEBMあるいは費用対効果のような研究領域を他の学問領域に使ってアプライしてみるということは、新しい学問領域を広げる、あるいは研究領域・研究者を育てるということにつながると思っています。ですので、そのような独自性・ユニークなところというものが、この政策のための科学に貢献するところは、京都大学の研究力によるところもあるのではないかというふうに思っています。

    われわれが社会の中で生きていく中では、あまり物事を考えないで、まわりが言うからそのようにやってみようとか、あるいはテレビや新聞が言うからそういうものなのだと信じてしまう。今まではそれでよかったのかもしれませんが、社会が全体として成熟していくためには、やはり個人個人がしっかり物事の道理というものを考える、いわゆる論理的思考というものが必要だと思っています。日本という国の教育は、いわゆる理系・文系というものを高校の時点で分けて、理系の人だからこうする、文系の人だから数字は触らなくていい、論理的思考はいらない、みたいなことがあったのかもしれません。今後はそういうことではなくて、やはり文系も理系もなく、論理的な思考、科学的な思考が行われるような取り組みが必要だと思っています。人材を養成する中で、そのような論理的思考がしっかりとできる人々を育てたいと強く願っています。様々な科学技術や、あるいは政策的課題というものに自分ならどのように対処するのか、そしてどういうお作法、手法があるのかということについてしっかりと学んでいただいて、ディスカッションをして、そしてさらに世界で活躍するためには交渉もできなければいけません。ネゴシエーション、プレゼンテーション、コミュニケーションと私は言っていますが、こういうものがしっかりできる人を育てることを目標にしたいと思っています。

    大阪大学とカリキュラムをご一緒させていただくわけですけれども、コアとなる領域、科学技術の基本的なところ、あるいはコミュニケーションの領域というものがあると思うのですが、さらにそこに二階建てのような形で、京都大学の持っている様々な強み、iPS細胞だとか、あるいはナノテクノロジーだとか、いくつか強みがあると思いますが、そういう領域の事例の中で、それが社会に応用される、あるいは技術の成果が還元されるためにはどうすればいいのか、というようなことを題材にしたディスカッションができないかと企図しています。将来的には日本の中に閉じこもるだけではなくて、人類として何が貢献できるかまで考えて、世界的なコミュニケーションを取りつつ進めていくというような教育にできればと考えています。関西の拠点として大阪と京都で取り組んで行きますが、これから新しい、人と違うことがしたい、論理的な思考というものを蓄えつつ社会に貢献したいというような学生に、ぜひ門を叩いていただきたいと思っています。

    星野俊也・教授



    国際関係と科学技術について
    教育プログラムについて



    国際関係と科学技術について


    私の専門は国際政治学と言われるものです。国家と国家の関係、それが基本ですけれども、最近は世界の人たちも世界中あちこち動きますから、そういうグローバル化の問題などを扱っています。

    国際社会というものの中で、平和と紛争、例えばそういう問題を考えるということが重要なのではないかと思います。国際政治の中で一番避けたいものは戦争ではないでしょうか。そこにはもちろん多くの軍事技術が関わってきますね。ある意味では科学技術の粋を集めたようなものが軍事的に使われてしまう。しかしそれをいかに使われないようにするかとか、あるいは平和のために賢く使うか、そういうことは国際政治では重要なテーマだと思います。

    軍事技術というものも、もちろんどんどん発展していくのですが、マンハッタン計画がまさにその端緒だったかもしれないけれども、平和的に開発されたものであっても、それが軍事的に転用されることがあります。あるいは両用技術とか汎用技術といって、本来は平和目的だけれども軍事目的にもかなり使われてしまう。マンハッタン計画は核兵器の開発に関するものですけれども、最近だとサイバー技術、情報科学分野での技術は、いろんな楽しい生活のためにも使えるけれども、使い方を間違うと、あるいは意図的に悪用しようとすると、サイバー攻撃など、かなり深刻な問題を起こすことになります。そういった問題も、われわれ国際政治の中では重要なテーマだと思いますね。

    核兵器や生物兵器、化学兵器は、大量破壊兵器、“Mass Destruction”といって、一度で非常に大きな被害を人々に与えることができる。しかし本来、医学系の技術や化学あるいは生物系の技術は、核もそうですが、人々の幸せのためにも使うことができます。いかに賢くその技術を使うのかと考えるのが一つですけれど、もう一つは、国際関係ではなぜ紛争が起こるのかと考えると、相手のことをどれだけ相互理解できるのか、できないのかということになるので、国際理解を議論できるといいと思っています。例えばナショナリズムという言葉があります。決して自分の国のこと、自分の文化を大事に思うことは悪いことではないと思います。しかし、これが国家主義だとか民族主義となってしまうと相手を憎む話になってしまって、先ほど言ったような技術を軍事的に使うという話に発展していくのだと思います。われわれの分野で言えば、どうやって相互理解を進めていくのか、文化が多様であるということは人々の生活を豊かにするのであって、むしろ楽しいのだというように、われわれの視野を広げていくような議論が世の中でもできると面白くなっていくのではないかと思います。

    経済的な格差というものを科学技術がどれだけ広げているのか、そこは分かりませんが、いま10億を越える人たちが、絶対的貧困というのですが、かなり厳しい貧困状態の中にいます。中には飢餓状態にある人々もいる。先ほどは紛争のファクターを申し上げましたけれども、その背景には今、地球温暖化だとか、食糧の分配が不均衡な状況になっている、そういう問題があるわけですね。あるいはエネルギーの分布が不完全、あるいは人口のバランスがよくないとか、そういう問題を考える時に、社会学的、経済学的な視点も必要なのですが、おそらく科学とか技術という側面を導入した視点というのは必要になってくると思います。例えば開発・援助をいかに効果的にするのか、そのときの科学技術、あるいは食糧の増産、あるいは環境の保全、あるいはエネルギー開発ですね。そういうところで科学技術の問題は国際関係・国際政治とかなり密接に関わってくると思います。



    教育プログラムについて


    大阪大学や京都大学のすごいところは、最先端の技術革新にずいぶん貢献していることです。工学系でも医学系でも生物系でもそうだと思うのですが、途上国の例えば開発の現場とか、紛争解決の現場に、意外と最先端の技術でなくても、その現地に一番フィットする、適正技術という言葉があるのですが、現地にいかに適応するような形の技術が必要なのか、そういうところを発見するというのはとても大事なことです。相手が人間であるということもありますし、文化的背景だとか生活スタイルというものがあるので、そういうものを総合的に学んでもらう。そういう意味ではフィールドワークをするとか、現地に実際行って、いろんな文化の人たちと話してみる。そういうようなことを経験しながら、ではあそこでどんな科学技術が役に立つのだろう、というふうに考えてみてほしいと思います。科学技術というのはある意味で普遍的なものだと思うのですが、適用する場所というのがいろいろあるということをぜひ学んでもらいたいということを、国際政治の観点から思いますね。

    そこにいる人たちがまず男性なのか女性なのか、子供なのか赤ちゃんなのか、あるいはおじいさんなのか、あるいは障がいを持たれている方なのか、あるいは紛争の中でずっと一生暮らしてきた人なのか、または農村の人なのか漁業の人なのか、いろんな状況がありますね。そのようなことの中で適切な技術の活用の仕方、科学の活用の仕方というものを勉強することが、おそらく国際政治とか国際関係という分野ではお手伝いできるのかなというふうな気がします。

    最近、人間の安全保障という言葉を使うことがあります。これは安全保障の問題を今まで国家単位で見ていたのですが、そこにいる人たちの視点で見て、何が脅威なのかとか、何が人々を不安にしているのか、それを考えてそこから人々を自由にしてあげるのか、解放してあげるのかというようなことを考えるアプローチです。そういう問題の所在、人々が抱えている問題を直視して、そこから政治的に解決できるもの、あるいは科学で解決できるもの、そういうふうに発展させて考えると、この政策のための科学というものが複眼的で包括的な視点で物事を見る、そういうアプローチを可能にしてくれるのではないかと思いますね。

    また、「外交」もキーワードのひとつですね。国際政治というのが、究極のところ戦争と平和の問題で、戦争をいかに回避して、そして平和をどう実現するかということだとすると、人間の世界でも国家間でも、紛争というのは、利害の対立というのは避けられないと思います。それをいかに平和的に解決するのか、軍事的な解決ではなく。そういう時には実は外交という手段が、昔から培われてきているわけですね。政策の上でもこれは外交政策という分野があるわけですが、科学技術と外交政策というようなことを考えるセッションを構想してみたいと思いますね。

    小寺秀俊・教授



    「政策のための科学」と人材育成の必要性
    教育プロジェクトについて



    「政策のための科学」と人材育成の必要性


    われわれは総合大学にいます。京都大学は研究大学と呼ばれていて、それぞれの研究科の中にたくさんの研究者がいます。京大で約3000人、それからポスドクなどを入れると6000人近くになるのですけれども、その研究者は自分たちが何をしたいのかという考えで基礎研究をしているのですね。自分たちの興味でドライブしている、「キュリオシティ・ドリブン型」といわれます。その次の段階は、それらが具現化して社会に出て行き、社会がそれを受け入れて、展開されていく。それは人文社会系からわれわれの科学技術まで全部同じですけれども、社会に出て行く時、何に基づいて社会が受け入れたらいいのか、基礎研究がそのまま受け入れられるのかどうかというと、少し違うと思うのですね。社会には社会のニーズ、社会が具現化するためのフィルターをかけて、その中で取捨選択をして、最適なものを選んで、社会に展開していく。社会に展開していったものは必ず戻ってくる。またニーズが出てきて基礎研究に戻ってくる。実は基礎研究から応用研究、応用研究から開発研究へといく時に、自分たちの影響力というのを予測しているのかどうか。実は予測していないのですね。どの部分を行うのかに関してはいろいろなデータに基づいて、実はわれわれ頭の中へそのデータを全部入れて、それでぐちゃぐちゃっと夜中に考えて、パッと目が覚めたら朝これをしようと思いついているのですけれども、それは整理されていない。だから第三者の人に聞かれると、どうしてこの研究を行っているかという説明ができない。その影響力というのも説明できない。

    それは、日本はこれまでは世の中が非常に活性化されて、発展していたからよかったですけれど、今は停滞系になって、世界の中で日本だけ遅れていこうとしていますね。もっと研究開発はスピードを上げないといけない、世界や世の中との距離を近づけないといけない時に、いったいどうしたらいいのかというと、われわれが判断していく、研究開発を展開していくという時に、きちんとデータに基づいて、ものを判断できるということが重要です。自分たちはそれができないのであれば、それをきちんと整備してデータをとって、いろんな判断基準を示してくれる人たちが必要なのです。今判断を間違えると大変なことになります。判断のスピードが遅れると、いろいろな事故が起こったり、人や世の中に影響したりしますから、スピード感のある判断、責任を持った判断ができる人たちを育てたい、というのが希望ですね。

    例えば工学部を出た人間が、全員が研究者や開発者になるかというと、そうではないです。普通の会社に入ったとしても、世の中に出たとしても、研究者をする年齢はたぶん35か40前までくらいです。その後は経営者であり、例えば人事へ行く人、営業へ行く人、管理へ行く人、いろいろなタイプがいます。ところが彼らにはデータでものを判断するということは全然教えていない。最初から自分たちはマネージメントへ行く、学術政策をやっていくということを目指す人がいてもいいと思うのです。そういう人は将来管理者になり、行政をやったり、世界のいろいろな機関で働いたりすると思いますが、その時に必要な知識を、例えば修士までは研究室にいて、ドクターからは政策論、政策の科学のような議論の中で、自分たちの科学技術を見ていく、ということができる人を育てる。一度専門的な研究をして、科学技術に触れているから、それがやれる。両方のセンスが要ると思います。これが、この政策の科学を進めないといけないと思う意識です。

    「キュリオシティ・ドリブン」の部分をなくすと、新しい研究が生まれなくなる、ということはないと思います。日本は、5年とか10年という研究プロジェクトだけを見ているのではなくて、100年、150年延々と、何かごちょごちょと行ってきたものが、ものを産んでいく、そういう非常にロングレンジの研究開発というものが重要であるということを、たぶん研究者も分かっているし、お金を出すスポンサーやファンディングの人たち、社会もみんなそう思っていると思いますね。そういう必要性をみんなが感じていると思っています。ということは、その部分を切り捨てないような努力をしている。大学でも3000人の教員は、みんな出口に近いのかというと出口に近くありません。出口に近い研究と同時に長いロングレンジの研究、「キュリオシティ・ドリブン」の研究を絶対に捨てないでおこうとしていますね。その精神が必要で、そういうところに世の中もファンディングしています。例えば研究開発投資をする時に、その投資をどこへ持っていくべきか。例えば世の中の経済状態が悪いからどの部分を絞って、どの部分を増やすのかという判断も、基礎研究から応用研究まで、それから社会までを全部見た判断が要ります。極端に出口だけを志向したような国や会社もありますけれど、そうなると、基礎研究が全部なくなって、基礎研究を海外に頼らないといけなくなりますが、日本はそうならないと思います。



    教育プロジェクトについて


    研究開発のプロジェクトを評価する段階において何が重要かというと、まず自分のセンスが重要視されますが、自分のセンスを重要視している時、自分たちはあまり自信がないのです。本当にそれが正しいか、自分が見聞きしてきたデータだけに基づいて、頭の中にある知識だけに基づいて判断しています。その中でミスジャッジがいっぱい起こるわけです。それについて実際のところ責任を持ってないのですね。例えばプロジェクトがターミネートされたとしても、それに関して自分が責任を持っているかというと、その後追及されない。ということは判断を間違ってはいけないということがあります。判断を間違わないためには、きちんとこういうデータに基づいて判断しますということを言わないといけないですね。はっきり言って、その手法をわれわれは習得しているわけではありません。「こう思うのだけど」ということを相談する人がいたら、その人たちがいろいろなデータを集めて、海外、国内、そういうところからそのプロジェクトの情報を集めて判断すべきです。ですから、今回のような教育プロジェクトというのは非常に重要です。

    まずこの分野を学ぶ人たちは、自分たちが科学技術なり、これは他の分野でもかまわないのですが、ある専門性のもとに自分たちが一時期プレイヤーであった必要があると思います。そのプレイヤーであった人たちが、問題意識をきちんと持って次には手法を学ぶ。手法を学んだら、必ず使い方を勉強しないといけない。手法は、知識であってはならなくて、知恵にしないといけない。知恵にするために、どれだけトレーニングをするのか。成功例ばかりがあってはいけない。一方向的な判断は非常に危ないので、多くの失敗例をもとに、多くの判断基準を持って、その中で最良のものを選択していく、そのような勇気と技術を持たせるということが必要です。非常にタフなカリキュラム、教育システムが要ると思います。ぜひこの政策の科学は、政策を科学する人を作るだけではなく、そういう人たちをどのように育てるかという開発もして欲しいと思いますね。

    先週ワシントンで、京都大学から来ていた学生と話をしました。今の学生たちは世界感覚、世界の視点でものを見るようになってきています。これからそういう学生が増えると思うのですが、学生たちには特に世界的な視点でものを見てほしい。そのためには世界的な文化とか考え方というのを習得できる柔軟な思考というものを持ってほしいのです。自分たちはこうだっていうのに陥りがちです。手法やテクニック、実習というものを行うと、自分たちはこれでいいと思ってしまうのですけれども、そうではなくて、いろいろなものの見方があって、判断基準もいろいろあるという柔軟性が必要です。教える方もそうですが、学生には、自分の柱を持っていると同時に、柔軟性を捨てないようにしてほしいと思います。

    人文社会でも科学技術でも、ある時自分でデータを集めて評価する立場に立ったことのない人たちは、プレイヤー側のマインドやものの考え方は分からないですね。その人たちのことが分からないのに、自分たちがデータで判断します。そうするとそのデータで判断したものを伝える時は冷たくなります。それを受ける側は、冷たい言葉というのは頭の中に入っていきません。拒絶するだけです。そうではなくて、きちんと話ができるようにするためには、迎合するのではなく、研究者、開発者など、どのような立場、分野でも良いのですが、判断される側の立場に立った経験が必要かなと思います。

    今回、関西は大阪大学と京都大学で連携して行うことになっています。地域的に近いということだけではなく、大阪大学は大阪大学の校風があって、学生はそういうところで育っています。京都大学は京都大学の校風があってそこで育っている。そういう考え方の違う学生が、一緒に教育を受けて、そこでディベートしたり、知識を戦わせることによって、多様性や柔軟性が生まれると思います。そういうメリットを最大限に発揮させたいですね。京都大学は、もともと時間が長く流れる土地にあって基礎研究重視、大阪大学はもう少し出口に近くてスピード感のある大学、と言われます。この二つの大学が一緒に行うことはとても重要だと思います。一緒に行うことのメリットをわれわれは最大限に活かしたいし、学生はそれを最大限に享受してほしいと思っています。そうしてその地域にはないメリットを活かして、人を育てたいし、人に育ってほしいと思っています。

    山中浩司・教授



    「政策のための科学」と科学技術の倫理的・法的・社会的問題(ELSI)について
    学生に期待すること



    「政策のための科学」と科学技術の倫理的・法的・社会的問題(ELSI)について


    私はもともと歴史を研究していたのですが、現在の専門は社会学で、主に医療技術に関する社会学的な調査や、医療技術が社会や研究にもたらす影響を調査しています。

    ELSIというのは、”Ethical Legal Social Issues”のことです。これは古くからある概念ですが、一般化したのはヒューマンゲノムプロジェクトで、ゲノム解読が人間社会にもたらす影響を十分考慮して研究を進めなければいけない、そういう方面の研究にも一定の割合の資金を割くべきだ、という考え方から進んできました。これが今、他の分野にも波及して、研究がもたらす倫理的な影響、法的な影響、それから社会的な影響、これを前提にした上で、例えばヒト・クローンの問題を議論するようなことです。ただ、現在は非常に漠然とした仕組みであって、ELSI研究は何か決まった分野というよりは混合体というか、おもに議論が集積された形になっていて、必ずしもうまく機能しているとは言えないと思います。

    「政策のための科学」とは、少し漠然とした言葉ですけれども、一つには科学技術研究の入口、つまり研究の前段階のある種の規制、あるいは方針ですね。そしてもう一つは出口、研究の成果が社会に対してどういうふうに出ていくのか。そういう二つの部分があると思うのです。現状、入口のところは生命科学で出てきたELSIという、倫理的・法的・社会的問題、これがひとつフィルタとしてかかっています。国や公共研究機関の場合は科学技術政策ですね。そういう方針があると思います。それから出口のところでは、最近 “Regulatory Science”という、メインはおそらく製品とか医薬品の安全性ですが、社会にそういう科学技術製品が出回った場合にどういうことが起こるのか、主に有害事象を事前にチェックする、あるいは市場に出た後にチェックする、そういう側面があると思いますね。

    今私が行っているのは、“Regulatory Science”でも入口のELSIでもなくて、どちらかというと出口のELSI、有害事象や従来の規制科学ではなくて、もう少し広い意味での社会的影響を調べる。この部分はあまり今まで行われていない。もう一つ問題なのは、入口のELSIというのは非常に漠然とした形でかかっていて、こちらのほうは“Regulatory Science”のようなきちんとしたフレームワークが現状ではないのですね。だから現状では入口のところで、いわゆる“Regulatory Science”的なきちんとしたフレームワークが要るし、非常に厳密な “Regulatory Science”だけではなくて、社会的影響という問題を定義する必要があるだろうと思っています。そういう意味では、入口の“Regulatory Science”、出口のELSIという、現状とは逆の手薄なところ、そこが重要ではないかと思っています。

    例えば医療であれば、新しい技術が出てきて、それが臨床的に有用であるかどうかとか、有害であるかどうかというのは従来の“Regulatory Science”でいろいろと調べられているのですが、そういう技術が普及した場合に、例えばお医者さんはどういうふうに対応するのかとか、あるいは患者さんはそういう技術をどういうふうに見ているのかとか、そういうことは従来の規制科学ではまったく触れられていない。そういうものが普及してしまうと、古い技術を後から取り戻すことはできませんので、コントロールできない状況になると思います。医療技術だと新しい技術にみんな飛びつきやすい。若いお医者さんは新しい技術に飛びつく。そうするとだんだん古い技術は忘れ去られて、後から取り返そうと思っても非常に難しい。実は患者さんにとっては古い技術のほうがフレンドリーだったりすることもよくあります。そういう側面が今現在ではあまり触れられていないと思います。



    学生に期待すること


    現状、研究者の方もそういう関心を持っている人が少ないので、まずはそういう方面に目を配っていただきたい。研究の成果を事業化・商品化する時でも、そういう面を考慮して販売や製品化ということをできるだけ考えていただくということが大事だと思うので、若い優秀な院生の方で将来研究者になる、あるいはビジネスの方に行く人たちがそういう視点を持つことは大事ではないかなと思っています。そういう意味では、時間を割いて、いろいろな社会的影響について考えてもらう、そういうものをどうのようにコントロールしていくのか、あるいはどういう予想外のことが起こりうるのかということを事前にインプットしてもらう、ということができれば、それがベストだと思います。

    分野によって問題は全部違いますので、院生の人の専門分野の中で考えてもらうということが大事だろうと思います。異分野の人との対話、研究分野が違うだけでなくて、ビジネスの人とも、どう考え方が違うのか、あるいは社会科学の人から見てどうなのかとかいう視点を入れてもらうことが有効ではないかと思います。どの人も今では何かの専門家ですので、特にどの分野というのはありません。私が研究しているのはたまたま医療技術ですけれども、工学分野や他の分野でも同じような問題があるのだろうと思います。

    われわれはこの前まで体質遺伝子検査というものの、主にビジネスの方向を調べていました。大学からビジネスへの転向を手伝われる方はたくさんいますが、やはり人材を探すことが難しい。ビジネスから研究に入ってくる人はいますが、大学からビジネスへ行く人が少ない。しかし、大学の中のアカデミックのいい部分を持ってビジネスへ出て行ってビジネスを変えていくこともありうるだろうと思っています。そういう方向へ行く人も、われわれのコースで学んでもらえたら面白いかなと思います。

    一時期バイオベンチャー企業が出た時に、アメリカの研究者は、バイオ分野のアカデミックの中から出た企業と、従来の企業はずいぶんカルチャーが違うということをおっしゃっておられました。アカデミックが持っているある種のオープンな環境、情報をオープンにするという考え方が相当効いているようです。その他に、日本でも医学部から出た人に聞くと、営利だけではなくて社会的貢献という視点が強い人が多いですね。今の世の中は学生もそういう関心が非常に強いので、「ソーシャルエンタープライズ」という視点を入れた事業というものが重要だと思います。そこでは、いったい何が社会にとっていいのかということを単純に考えるのではなくて、自分たちがしていることの影響を含めて考えるというふうにしていければ、最善かなと思います。

    例えば医療分野ですと、聴診器を使えなくなっている人がたくさんいるという話があります。聴診器だけではなくて、レントゲンの読影とかバリウム検査の読影、これもだんだんできる人が少なくなって、できる人が少なくなっているのでやめてしまうというケースも増えていると聞きます。これはもちろん競合する技術がたくさん出てくるためですけれども、わりと思いこみが激しいのは、新しい技術は古い技術をすべて包摂していると、だから古い技術は要らないというふうに言われることが多いのですが、実際に専門家の方の話を聞くとそんなことはほとんどなくて、ほとんどの場合はカバーできない部分があると。だけどそのカバーできない部分に大きな時間を費やす人がいなくなってくると。そうするといずれバランスが崩れて、昔だったら簡単にできたことが、大病院に行って何十万円もお金を払わなければできない、というようなことも起こってくるだろうと思います。これは医療経済的にもきわめて大きな浪費ですし、社会的にも大きな損失だと思っています。

    小山田耕二・教授



    可視化とは
    可視化技術と「政策のための科学」について
    今後の教育プログラムと課題について



    可視化とは


    私は、可視化技術の研究を長らくやってきました。可視化技術というのはデータをわかりやすく画像化する、ということなのですが、「わかりやすい」というのは、基本的に脳の中にパターンとして保持されたものにうまくマッチングさせていくということです。「わかりやすく」というと簡単なように聞こえますが、実際かなり奥深くて難しい。「わかりやすさ」ということをどのように確認していくかということで、最近は脳科学のいろいろな知見を得て、それをさらに発展させていくというようなことも視野に入れています。それが私の研究のバックグラウンドですね。

    ソーシャルメディア、そういったものを見えるようにすることを可視化ということもあるでしょう。さらに実際の行政ということになりますと、地図上にマッピングされた何らかのデータをもとに話し合っていくということもある。その場合、使われるデータというのはサイエンティフィックな可視化でよく使われているデータと同じですから、そういったものを使うということでは共通の基盤もありますね。政策のための科学における可視化といっても、これまで私が携わったものと本質的にはあまり変わらないものだと思っています。

    基本的には可視化というのは視覚を通じて人間に気づきを起こさせる。その次に、気づきを得た人間が、同じくその画像を見た人と対話を深めていって、そして自分自身で考えますと、これは思考というものを深めていく、そういった役割があると思います。その次のステップとしては、適切な行動に移ること。人間の脳で言いますと、運動野のところに刺激が回っていって、次に適切な行動をとって、また新たなものを見て、ぐるっとスパイラルで回っていって、自分のところに残る知識ですね、そういったものが高まっていく。そういったものは自然科学・社会科学・人文科学に共通することだと思っていますので、それらも含めて可視化の役立つエリアを広げていきたいと思っています。

    社会的合意を得るために活用しなければならない大量のデータが現在すでに出てきていて、これらを無視するということはできないでしょう。そのための手段はいくつかあるのかもしれませんが、とにかく人間の脳の中に入れていかないといけないわけですね。それは味覚でも嗅覚でも何でもいいのですが、やはり視覚を通じて入れていくのが一番効率がいいのではないかと思います。



    可視化技術と「政策のための科学」について


    科学技術イノベーション政策のための科学ということは、社会が直面する課題というものを抽出して、その中で科学技術がカバーできるもの、それから社会システムの変革が必要なもの、と絞り込んでいって、それを政策メニューの方に落とし込み、社会に提供するものだと思っています。その社会的な課題を実際に抽出する上で、可視化技術というのは大変重要になってくるものだと思っています。社会というものに関してどう直面するかということですが、社会に直接インタビューすることもできませんし、実際にヒアリングすることもできません。現在だったらソーシャルメディアというもので社会の声というものを聞くことができるのですけれども、このデータというものが大変多くて、一日あたりだいたい9千万くらいのツイートが流れていたり、何十億ものメールが、毎日世の中に流れています。それらを一つ一つ確認することはできないわけです。そこで、可視化する、わかりやすく絵にする、こういったことがひとつの役立つ技術になるだろうと思っています。そういう点で、可視化技術は政策のための科学に大変貢献するものだと思っています。

    例えば、NSF(アメリカ国立科学財団、National Science Foundation)のジュリア・レーン(Julia Lane)さんという方は、投資に対してどの程度科学技術イノベーションが起こっているか、実際に投資したお金がどのように有効に使われているのかということを、可視化技術を使って確認するということを行っています。可視化は、このプロジェクトで期待される技術だと考えています。

    「科学技術イノベーション政策のための科学」と名前には、「科学」が二つ入っていますが、科学技術というコンテクストでの「科学」と、政策のための「科学」というところは若干ニュアンスが違っていると思います。科学技術の科学というのは、自然科学に関係する言葉ですが、最後の科学というのは科学的手法ということだと思います。この科学的手法というのは簡単に言ってしまえば、基本的に問題を設定して、それに対して仮説を設けて、それを検証して、エビデンスでもって検証して、有効性を確認するという流れだというふうに言われていますが、そういった一連の流れを、我が国の教育機関では、きちんと教えてこなかった。まずそこの充実を図る政策の科学ということも、考えていく必要があると思っています。



    今後の教育プログラムと課題について


    私たちは京都大学の中で、政策のための科学に参加する前から、そういったことを試験的に行ってきました。一年生に自分の気に入った課題を見つけてもらって、その課題に対して仮説を設けて、それを立証するためのエビデンスを探してきて、その有効性を確認する、そういった演習を行っています。それをわかりやすく説明するという必要もありますので、本学では時計台ホールというけっこう大きなホールがあるのですが、そこで500名相手に英語でプレゼンテーションするという機会を設けています。こういったことを通して、科学的手法というものを大学の教養レベルでうまく体得できるような授業を行っています。

    大学院でも、科学的手法という点では同じですが、学生のみなさんにはとにかくフィールドへ出かけていって、まず社会の声を聞いてほしい。実際出かけていくことも大事ですが、Webや可視化技術を通じて社会の声を聞く、そういったこともできるので、学部生に比べてより広い範囲で社会の声を聞くということをまず行っていただきたい。

    具体的に私が今、始めようとしているのが、ポートフォリオの利用です。ポートフォリオを利用して自分の学びを振り返って、そして自分の次なるステップというものに、学びがどう役立っていくかということをやはり見せてあげなければ、学生にとって何も残らないのではないでしょうか。今回は教育という観点でのプロジェクトですから、ポートフォリオの活用を取り入れていきたいと思っています。

    可視化技術を使った市民との対話の促進は、チャレンジングな研究課題だと思っています。論文になるということはそれをきちっと計る指標が確定されていないといけないと思うのですが、社会的実験に通ずるところがありますので、それを実際に見ていこうとするとものすごく長い年月がかかる。より小さなスケールで計る方法は何なのかというところが重要です。私はいまだ仮説すら思いついていませんので、このプロジェクトで模索していかないといけないと思います。

    加藤和人・教授



    科学と社会を「つなぐ」
    「政策のための科学」への期待
    社会システムに合わせた研究
    パブリック・スフィア(公共圏)における研究
    求める人材
    今後の課題と教育方法について



    科学と社会を「つなぐ」


    私はキャリアは少し変わっていて、科学者になるべくして、研究もして、論文も書いて、海外にも留学してと、様々な科学の現場にいたのですが、もともとは科学だけではなくていろいろなことに興味がありました。親戚に経済学者がいたこともあって、文化系の学問にも興味がありました。ある時に、科学がこんなに面白いことをしているのに、閉じこめるのはもったいないし、閉じこもるのももったいないと思って、科学と社会を「つなぐ」仕事から始めたのです。

    例えば、生命科学の映像を作っていたのですが、面白く分かりやすく伝えるだけが科学の面白いところではないだろうと思いました。科学の醍醐味は、未来の世界を切り開いていくことにあって、それは時に、例えば原子力のような新しいもの、あるいは生命科学で言えばクローン技術等を見つけるわけですね。今まで分からなかった、人間が知らない自然の世界を明らかにしていくものなのです。そうなると、そこから重たい影響も出てくることがある。知識の生産ということと、それに伴う社会への影響のようなものも考えたい、と思っている時に大学に戻ることになって、戻ってからは、科学を楽しく伝えるだけではなくて、どういう倫理的・社会的問題があるのか、それに対して社会の制度や科学者の振る舞いをハードなものからソフトなものまで含めてどういうふうに考えないといけないのか、ということに取り組んできました。単に「法律を作りましょう」というのではなくて、社会の中の様々なことがどうなったらいいのかということを考えたいと思っていて、良くも悪くも、いろいろなキーワードで仕事をしてきました。

    この10年で面白い経験をさせてもらったもののひとつが、ゲノム研究の国際プロジェクトの中で、ゲノムを社会面から考えるグループに入れてもらったことです。国際ハップマップ計画という、ネイチャーという有名な雑誌の表紙になるような大プロジェクトがあって、その中で法律を専門にする人や、人文社会学を専門にする人と一緒に、ELSI(科学技術の倫理的・法的・社会的問題)、まさに今回の「政策のための科学」プロジェクトはELSIを扱うと思うのですが、「倫理的・法的・社会的問題」を考えることに取り組みました。

    2000年代の初め、日本ではまだ、「科学は科学者がするもの」と考えられていた頃に、この大きなプロジェクトの中で、少なくとも西欧の人々は研究者自身も社会面を考えなければいけないということで、数百人のチームに数十人の人文社会の専門家を入れたのです。日本から、たまたま私がそこに呼んでもらって入ったわけですね。そこでは、科学者とともに社会的課題を考える、そしてどのように対応したらいいかを考える、そういう検討の場があって、科学者とぶつかり合いながら、いろいろなことがありましたが、最終的にはこのプロジェクトの中の大事な部分について、私たちがいることによって少し内容が変わった、という経験をしました。例えば、人のDNAのサンプルをどう呼ぶかという問題で、日本や中国で集めたサンプルをアジアのサンプルと呼ぶのか、あるいはもっと限定して日本のサンプルと呼ぶのか、中国のサンプルと呼ぶのかという呼び方についてアドバイスをするというような活動です。



    「政策のための科学」への期待


    科学技術を進める時には、科学者だけでは考えられない大きな問題が数多く出てくる。科学者も自分たちには分からないから、いろんな人に謙虚に話を聞く。それにはまずは私が経験したように、人文社会系の人が一緒にやる。さらには、大学の人間だけでは見えないものもたくさんあって、やっぱり足りない。社会の中の市民、生活者、あるいはライフサイエンスの場合は特に患者さんと一緒に進めることが大切だと思います。例えば、病気になった人となってない人では考え方がだいぶ違います。そういう広い視野で科学技術の大きな目的も細かい進め方も見る。そうすることで、しっかりと検討された形で科学技術の研究開発が進むと思います。

    今回の政策のための科学で私が期待していることは、広い視野から科学技術が検討され、「こんなことが起こっているのですね」ということや、「いや、このところはゆっくり進めたほうがいいのではないか」とか、「ここのところはこういう人たちと一緒に調べて進め方を決めたほうがいいのではないか」という広い視野を取り込んだ進め方ができていくことです。

    そのためには、二つあって、個々の科学研究プロジェクトについて、具体的にどういう進め方がいいのかということをプロジェクトを越えてアドバイスする、世界の視点から見たらどのようなことが必要なのか、それから日本でも、よく言われる話ですが、省庁の枠を超えて考えると何が必要なのかという、具体的な進め方を考えてそれをアドバイスするということですね。プロジェクトを進める科学者や政策担当者に対して。それからもう一つは、こっちはもっと大変だと思うのですが、そういう意志決定の仕組み自体を問い直して、現在の日本の世の中、科学技術に関する意志決定の進め方それに対して何をすべきなのかというのを提案していくということですね。

    最後は選択になると思うのですが、世界的にはいろいろな経験、ミクロのレベルからマクロのレベルまでの経験があるので、それを参考にして検討するということですね。私の場合は定量的データ、数字のデータだけを考えているわけではなくて、もうちょっと経験に基づくというところがあると思いますが、例えばアメリカのシステムがベストだと思っているわけではない。アメリカでもうまくいっていない部分はたくさんあります。国際的な交流の場で同じようなことを考えている人に会うと、向こうは向こうで「こんなことがうまくいっていない」と言ってくれるから、お互いに学び合って、解決案をお互いに持ち合って、これがいいのではないでしょうか、なぜならこういう失敗の経験があり、成功の経験がある、などということをしっかり記述していく。そういうデータがあれば、政策を決定していくのに使えるのではないかと思うのです。



    社会システムに合わせた研究


    ハップマッププロジェクトに入れてもらったおかげで、人文社会科学から科学技術を考えているレベルの高い研究者と知り合いになりました。そうすると「日本にはカズト・カトウがいる」というので次から次へと呼んでもらえるようになって、意志決定の仕組み自体もだいぶ違うということを経験できました。例えば、アメリカにNIH(アメリカ国立衛生研究所)という、生命科学や医学研究、医療、ライフケアを扱う研究組織がありますが、NIHがどういうふうに政策を決めているのかを部分的ですが見せてもらいました。また、研究員としてイギリスに四年近くいた時は、ウェルカム・トラストという財団の理事をされている先生の下で働いていたので、ヨーロッパではどういうふうに物事が動いているのかを見ることができました。そういうことを総合して、今の考えに至ったのだと思います。

    例えば、ライフサイエンスの研究と医療への応用を考える時、社会システムを考慮に入れることが重要です。日本やイギリスは国民皆保険で、医療のインフラが、苦労はしつつも一応整っている。アメリカでは、それがないのですね。個人でお金を払って健康保険に入る。それに合わせていろいろな仕組みを作っているわけです。日本の場合も、私たちのシステムに合わせて基礎研究を行えばいい。アメリカのシステムが全部使えるわけではないし、逆に日本が効率よくできることも多分あります。あまねく行き渡っているインフラがあるということを使えばうまくいくかもしれないから、そこはアメリカばかりを見てもダメですね。つまり、医学や医療の専門家だけではなくて、法律や政治や社会制度の専門家にも学ばないといけないし、そういうことが大事で、これからの大きな課題だと思います。



    パブリック・スフィア(公共圏)における研究


    大学の人間はアカデミックという言葉をよく使います。「やっぱりアカデミックな仕事は一番面白いよ」って。少し偉そうですが。それは、“public sphere”(公共圏)というのですが、そこで仕事ができる。パブリックな世界で仕事ができる。私利私欲にとらわれないプロフェッショナルたちが寄ってきて、パブリックのために私たちは仕事をしている。それはとても気持ちがいい感覚です。確かに研究者はみな競争はしないといけないし勝たないといけないのですが、同時にパブリックな活動をしている誇りをとても大事にしている。特に西欧の研究者を見ていると思います。

    今回のプロジェクトは、ローカルにいうと京都大学と大阪大学のジョイントの拠点なので、私はその二つの拠点のつなぎ役、両方がどのようにして強くなるかということに興味があります。科学技術を専門にする学生たちがたくさん入ってきてほしいので、人文科学・社会科学もですが、特に科学技術に関して言うならば京都の生命科学分野には知り合いが多くいますので、そういうところの学生たちがたくさんこのプロジェクトに入ってきたらいいなと。そういう学生とつき合いたいというか、教える・教わるというような偉そうな関係ではなくて、「頑張れよ」と言いたいですね。

    私自身は、人と人をつなぐのが好きなので、自分がじっとしているよりは「ここにこんな面白い人がいる」、「ここにこんなえらい人がいる」、「こことここが会うときっといいことが起こる」などと思ってしまうのですね。学生たちを見ていると、一人一人がいろいろなことを考えてくれます。22歳なら22歳、25歳なら25歳で考えています。今この人が一生懸命喋っていることが、この視点があったほうがもっと強くなるかもしれないと思うと、つい紹介したくなる。それをしているうちにいろんな人と知り合ってしまうので、つい動いてしまうというか、ネットワークを作ってしまうようです。自分自身はディレクターではなくてプロデューサーだと思っています。



    求める人材


    データをしっかり出す人は重要です。私たちの場合は必ずしも定量的データばかりではありませんが、しっかりとインタビューしたり、しっかりとさまざまな政策オプションに関する調査研究について、データを集めたりする人と、チームとして、全体を見渡す人間の両方が必要だと思います。学生たちにはどちらにも興味を持ってもらえるといいですね。ひとつの問題に張り付いて必要なデータをできるだけよい方法で集めることと、枠組みや分野を突き破る、国を突き破る、時代を突き破る、そういう視野とは、はっきりと違うので、その両方を身につけてもらいたい。

    ただ、こういうインターディシプリンな分野というのは、いろんなものをつまみ食いしてしまうので、やはり20代、30代の初めくらいは、しっかりとはりつかないといけないと思いますね。それはこの分野の一つの課題だと思います。科学技術の専門、それから人文社会の専門、それらを本当にしっかりと修めて、そこが強いままで、さまざまな政策に関する科学のメソッドや面白さを知ってもらう、その両方をしないといけない。これは大変なことだと思いますけど。

    広い視野を持つことに加えてもう一つ重要なことがあって、あえて言葉にすると、個々の科学技術のプロジェクトのことだけに注目して、短期的な成果を上げることだけを考えるというのではなくて、長期的に考える。それから、いろいろなところに利益が出るようにするためには、一つ一つのプロジェクトがどのように動いたらいいのかを考える、そのための基盤を作るデータを出すという、参考となる科学研究を進める。日本では一つ一つのプロジェクトが3年後の成果はどうですか、5年後の成果はどうですかと言っていますが、集合体として見た時には最大限の成果は出ていないと思います。一つ一つを全体の目標に対してマキシマムにするというのは難しい。

    具体的に言いますと、ゲノムの研究をする時に、一つ一つのプロジェクトが論文を書くことも大事なのですが、できたデータをしっかりとデータベースに入れれば、次のプロジェクトがそれを使えるわけですね。他のプロジェクトが同時進行で使うかもしれない。これは、なかなか一つ一つのプロジェクトの人には考えられない。誰かがプロジェクトを超えた仕組みを提案しないといけない。例えばデータベースということを考える。どんな方法がいいのかというのは別の視点で考えないといけない。実務的な話も大事だと思っています。

    いま問題になっていることは何かというと、個別の短期的な視野で科学技術のプロジェクトが進んでいること。もう一つは、専門家だけで決めていることで、視野を広げていかないといけない。ただ広げていく時にいろんな人が集まればいいだけではなくて、しっかりとデータを用意して、調査研究をしておかないといけないと思います。シンクタンク的な活動が必要ですが、その活動はいわゆる大手のシンクタンクがあればいい、あるいは総合科学技術会議にあればいいとそういうものではなくて、このプロジェクトで言っている市民の部分、それから研究者の部分、全部必要だと思います。だからNPOを取り入れる形で市民セクターがすごく調査能力を持つこと、患者団体が調査能力を持つこと、それから研究者が学会や学会を超えたレベルで調査能力を持つこと。学術会議などももっと強くなっていただく。そういう調査能力を身につけることが大事で、それが欠けているのが今の日本の課題だと思っています。「つなぐ」と言いましたが、それは、つないだ時に必要な考える材料を用意するということかもしれません。



    今後の課題と教育方法について


    これは他の方々と議論しないといけないのですが、ライフサイエンスの個々のプロジェクトでは考えられないインフラ、例えば細胞バンクのような仕組みを発展させることが必要です。細胞バンクを日本としてどのように整備していけばいいのか、という具体的なこと考えるとき、国レベルの科学技術予算の配分ということと、個別のプロジェクトをどう動かすのかということ、その間のレベルの仕事をしたい。例えば政府のガイドラインや研究のためのガイドラインがどういうものであればいいのかということも政策のための科学の研究だと思っています。

    少し具体的な話をすると、博士課程の学生の一人が、再生医療という最近注目されている分野について、市民の方々の意見と専門家の方々の意見を比べるという調査を行いました。面白いことに、双方の意見はかなり違うのですね。再生医療をどう思いますかというと、専門家でない人たちはそれが実現した後のことを気にするわけです。そして「どんどん治るようになっちゃったらどうするのですか」とか、「ケガが全部治るようになったら子供が怖がらなくなりませんか」とか、そういう話をするのです。専門家のほうは当然ですけれども、いま一生懸命開発している、開発段階の様々な問題に興味があるわけですね。でも実際に開発して医療に使われるようになった時、それを使うのは市民であり、患者さんであるわけです。どの部分からどういうふうに発展させていったらいいのかということを今のうちから考えなければ、どこにお金を配分したらいいのかとか、どの技術をより早く開発させたらいいのかということが決められないと思います。

    そのことを一ヶ月ほど前にある大学の医学部で大学院生に講義をしました。私は学生たちがそんな意見は意味がないと反応する可能性もあると思っていたのですが、彼らはこのような意見を聞くことは絶対に重要であると言っていました。何に役に立つのですか、と聞くとそれは返ってこないのですが、ただ絶対に聞いておくことが大事だと思うと言ってくれて、それはすごく面白かった。何か聞いておかないとダメだな、と思うみたいです。専門家はそのことの専門家ですが、他のことは素人です。いわゆる市民や患者さんはそのことにおける専門家ですから、やはり一緒に考えるということが大事だと思いますね。何が何に具体的に役に立つのかということは、まさにこのプロジェクトを通じて、もっとクリアにしていけるといいですね。はっきり言うとそこはよく分かっていない。「市民に開くべきである、原子力だって専門家が決めたから起こった」と言いますが、では何をどう入れたらどう良くなるのですかと言うと、実はみんな答えられないと思っています。ここは、このプロジェクトの課題のひとつとして、これから詰めていかないといけない部分です。

    誤解されないよう付け加えると、患者さんの声を取り入れた医療は既にあると思いますし、電化製品等では、例えば目が見えない方に意見を聞いて、そういう方が使う時はどういう形だったらいいのかとかいうことは行っています。そういうものはいくつもあると思いますが、科学技術全般の進め方というより大きな政策に関して、市民の声をどう取り込むのがいいかということは、まだ始まったばかりだと思うのです。

    先ほど医学部での講義の話をしましたが、このプロジェクトもできるだけ対話型で行いたい。ある程度はこちらから知識を提示しますが、それに対してみなさんがどう思うのかということを聞くこと、そして何よりも大事なことは、学生がたとえ政策のための科学について何も知らなくても、自分だったらどうしたらいいと思うのかを言ってもらう。学生による提案型の授業にしたいと思います。

    学生にもプロになってもらわないといけないと思いますし、レベルは高くしないといけないと思います。それをある程度繰り返すことで、このプロジェクトで考えた政策提案を本当に政府の方が使う、実質的な意味で参考になるということが、私達の目標だと思うのですね。「お勉強」や練習をしているのではなくて、「本番でやる」という意識は持っていいのではないでしょうか。京都大学と大阪大学で行うことの意味は、メインの科学技術の研究では、まさに世界レベルのジャーナルに出るような仕事をしている人が政策について学んで提案するということで、大学院生であってもプロの科学技術の政策の提案になると期待しています。何か教養を身につけようと思って来るのではなくて、私達が5年後10年後を変えるぞ、というふうに思ってもらいたい。変えられることを示さないといけない。そのためには、かなり気合いを入れないといけないと思っているのですが、そうなるといいですね。

    瀬戸山晃一・招聘教授



    法哲学と「政策のための科学」について
    求める人材とは



    法哲学と「政策のための科学」について


    私の専門は法律で、法律の中でもとりわけ法哲学、法理学といわれる分野を研究してきました。その分野では、法とは何か、法が追求すべき正義や平等、法が禁止すべき差別とは何かなど、様々な論争議論があるわけですね。その論争の背後にある理論対立、一口で言えば、どこまで個人の自由、自己決定を認めるべきなのか、それを法によって禁止する根拠は何なのかということを探究してきました。

    現在、科学技術とりわけ生命科学技術の進歩というのはすごいピッチで進んでいます。みなさんもご存知のようにiPS細胞、ES細胞の研究によって再生医療の可能性が広がっています。また、人間の遺伝子を解明する、ヒトゲノム計画というものが2003年に完了して、現在人々の個別の遺伝情報と特定の疾患の関連性というものが解明されてきています。どんどん科学技術が進歩していく中で、科学技術が進歩しているという事実とそれをどこまで我々がアクセスし、利用していいのかという問題、それは、規範に関わる問題で、どこまで利用していいのかどうあるべきなのか、どこまで社会としてそれを規制していかなければならないのかという問題は別の問題な訳ですね。私は法学だけではなく、法と経済学、あるいは行動経済学、あるいは生命倫理の立場から、どこまで社会が、そういったどんどん進歩していく科学技術に対して規制を加えていくべきなのか、あるいは規制を加えないべきか、ということに興味があります。

    私は父を小学生の時に亡くしました。その後、祖父母も中学高校のときに立て続けに亡くなって、思春期の時期に、死とは何か、病名を告知するべきかどうか、というような問題に興味を持つようになりました。大学に入ってゼミで、安楽死の問題などを扱って、特に生命倫理に興味を持ってきました。特に自由、自己決定に対して、どうして法が規制しなくてはいけないのか、本人自身のために本人の自由を規制する根拠は何か。例えば、父親や母親が高校生に向かって、「いい大学に行くために勉強しなさい。遊んだり、サークル活動したり、恋愛したりしてはいけません」と自由を制限する。これがパターナリズムの典型です。そのパターナリズムの根拠は何であって、そのパターナリズムはどこまで正当化されて、どこまで制限されなければならないのかというのが私の研究テーマでありました。

    科学技術すべてそうかもしれませんが、生命科学技術の問題は、グローバルな問題です。日本社会だけの問題ではなくて、国境を越えた問題でありますね。法律というのは国とか地域によって限定されているので、一定の限界があるわけです。例えば日本で今禁止されている代理出産や、あるいは臓器売買も、海外でそれが可能な地域や国があれば、そこに行っておこなわれるわけです。そのような問題にどう対応していくのか、これは国際的な、グローバルな課題として取り組んでいかないといけない問題ですね。

    もう一つは、生命科学技術というのは、我々だけではなくて我々の子孫、将来世代にすごく影響を及ぼす問題だということです。例えば、現在多数者で決めたことが、時系列で見たら必ずしも正しいとは言えないということも言えるのであって、そういう中で将来世代に決定的な影響を及ぼす科学技術のあり方に対して、どういった形で社会が規制をかけて、要するに法を用いて、規制をかけていかないといけないのかということを考えていかないといけないと思います。

    通常、法というと国会で制定された立法を想定しますけれど、法律を改正するにはすごく時間がかかってしまう。その間に、社会はどんどん変わっていくわけですね。法というのは紙に書かれたもの、“Law in Book”ではなくて、我々法学者、法社会学者というのはむしろ、書かれた法よりも、それが社会でどういう風に運用されていって、どういう波及効果を持っているかに注目します。それは、“Law in Action”と言います。法があっても、それを実際に適用して判決文を書く、裁判というものが非常に重要になってくるわけですね。ただそれも、実際の問題が起きて、どういうふうに処理するかという事後的なものですので、政策は、その裁判の判決が持つ意味も考えないといけないし、問題が起きてからでは遅い問題もありますね。だから、事前にどう問題を予防するのか、解決するのか、それが正に法学者が探究する領域であるわけです。法律というのも、薬と同じように副作用があって、ある目的のための規制や禁止は、その目的は達成するかもしれないけれども、意図せざる結果として他の不都合を生んでしまうケースがあったりするわけですね。

    例えば、女性を保護するために、育児休暇を法的に義務づけ、罰則を設けたとしますね。そうすると、確かにフルタイムで正規雇用として雇われている人にとってみれば、権利を保障されますけれども、例えば、女性を採用したら育児休暇を与えないといけないということになると、今度は採用段階での女性差別というのを助長することになります。そのように、法律というのは規制のかけ方によって、本来の目的とは逆の、意図せざる帰結を生んでしまう可能性もあるので、そういう規制をすることの問題性も科学技術を研究している人、あるいは社会の一般の人も意識していく必要があると思います。

    また、法というのは、人間が作り出した制度であり、ルールです。しかし、我々の意識を無意識のうちに変えてしまう可能性もあるわけですね。具体的な例で言えば、1997年に脳死臓器移植法が制定された時、脳死を人の死とするかということに対して、かなりの抵抗があったわけですね。だから、法律では、脳死を必ずしも死としない、ということになったのですが、脳死臓器移植法ができてかなり時間がたった今は、人々の意識が変わって、脳死を人の死として認めることに対する抵抗は少なくなってきているわけですね。そのように法律というのは、人々の意識を変えるものでもあって、そういうことに対しても我々専門家だけではなくて、一般市民も、あるいは異分野の人たちも、敏感である必要があると思います。

    科学技術の進歩という事実が我々の意識とか価値観を変えていく、また、その新しい価値観によって法とか制度が変えられていく。それがまた知らないうちに我々の意識を変えていく。この動的な関係に、常にセンシティブである専門家というのが正にこれから求められている人材ではないかと思います。



    求める人材とは


    私は大阪大学の大学院の博士課程で勉強した後に、アメリカの法科大学院で学びました。両方の大学院を見てきてつくづく思ったのは、アメリカの法科大学院は、ディスカッションをするような、インタラクティブな授業が多いわけですね。法律は我々が作って運用していくものですから、専門家によっても意見がすごく分かれます。判決でも、9人のアメリカの最高裁裁判官が5対4で分かれる時があります。日本でも、15人の最高裁裁判官が、7:8で分かれることもあるわけですね。そのように専門家の中でも意見が分かれる。また、学者の中でも意見が分かれる。なかなか答えが無い問題です。今、求められている我々の知的態度というのは、いろんな知識をカテゴリーに分けて、おさめていって理解するだけでは対応できなくなっている。そういった非常に難しい問題、特に生命科学技術をどう運用していくのか、どこまで認めるのか、というような将来世代に関わるような問題に対する規制というのはなかなか難しい問題ですね。

    そういう難しい問題は、やはりいろいろ各分野の知を結集して対応していかないといけないと思うわけです。答えがなかなか出ない問題を考え抜く。考え抜くためのフレームワークやアプローチの仕方、また、様々なアプローチがあるということを学ぶ。それができないと真の意味で、適切な政策決定はできないので、そういったようなアプローチの仕方、視点というものを学生には学んでもらいたいと思います。

    もう一つ、私がアメリカにいた時の授業は、ロースクールの教授と、薬学や医学の教授など、様々な専門家が一つの授業で一緒にディスカッションしていました。学生の方も、将来、法曹、すなわち裁判官、弁護士、検察官になる学生、医学研究者や医師になる学生、薬学の研究者や看護の研究者になる学生、看護の実務で働く学生など、様々な大学院生が一緒に授業するわけですね。どうしてこういった授業をするのかというと、そこで学生間の異分野のネットワークができるわけです。日本にはこういうものがない。今、私は法科大学院で授業していますけれども、法科大学院生だけに授業しています。だけど、あちらでは異分野の学生が混じることによって、お互いのネットワークができて、卒業後に、将来いろんな分野で活躍して、異分野の専門家と協働していろんな問題に取り組める。こういうことが授業の中から生まれてくるような授業やプログラムというのも、できる限りこの中で実践できたらいいなと思っています。

    平川秀幸・教授



    現代社会におけるリスクの問題について
    プログラムへの期待
    社会の将来像について
    プログラムにおける教育方法について
    対話の取り組みについて



    現代社会におけるリスクの問題について


    私自身はもともと、学部と最初の修士課程までは物理を専攻していました。バリバリの理系だったのですが、その後に文転をしまして、哲学の分野に移りました。科学哲学というものを研究して二つ目の修士号を取り、その後さらに博士課程に進んで、哲学からもう少し枠を広げて、科学、技術そして社会の関わりを研究する、科学技術社会論という分野に枠を広げていきました。その中で私自身がずっとテーマとしている問題は、現代社会におけるリスクの問題です。

    しばしばリスク社会という言い方もされますが、原子力や放射線の問題など、科学技術の進歩は利益とともにさまざまなリスクを生み出してきました。そうしたリスクを社会の中でどのように扱っていけばいいのか。特に、リスクをめぐる政策、さらに、リスクを生み出してしまう技術や科学をどのようにして人間社会がハンドルをつけて動かしていくのか、方向づけていけるのかということ、また、政策決定や政策が科学に対してどういう影響を与えるのかということに関心を持っています。そういった政策決定、科学が関連するリスク、例えば環境問題や食品安全を考える時には、当然ながらさまざまな科学的エビデンスというものが非常に重要です。そうした科学的なエビデンスを政策の中でどう生かせるのか、どう生かさなければならないのかといった問題、そういう意味での科学と政策との間の相互作用に興味を持っています。

    それと同時にもう一つ大きな問題は、通常は政策というと行政、議会、政府と、それからあと専門家集団ということになるのですが、その政策決定の中にもっと広く、様々な利害関係者や、一般の市民がどう関わっていけるのかということです。様々な期待がある一方、様々な懸念・心配事もあるわけですが、そういう声をどのようにして政策決定の中に反映できるのか。そういう観点で、政策のための科学で特に充実したいのは、政策決定をする時にどのようにして学問の中に科学を入れてくるか、学問というのは単純に理科系の自然科学だけではなくて、人文科学、社会科学も含めて、学問の知恵をどのように政策に反映できるのかということです。社会の側の様々な問題意識や価値観、様々な知恵や知識があるわけですが、それらをどう政策の中に反映できるのか。そういうことを、政策のための科学の中では重視したいと考えています。特に私自身が関心を持っていたのは遺伝子組み換えの問題、それから2000年代に入ってからというのは、日本でもBSE(牛海綿状脳症;Bovine Spongiform Encephalopathy)が発生しましたので、BSEの問題も追いかけてきました。



    プログラムへの期待


    私だけではなくて、このプロジェクトに参加する他の先生方も含め、様々なところでこういう取り組みや研究は行われてきましたし、いろいろな実践・社会実験的なことも行われていたのですが、文部科学省の大きな方向性として、それを実際の政策に活かしたり、またそれを活かせるような人材を育てていこうということが走り出したので、これからは研究と政策の世界がもう少しうまく接近して、つながっていくのかなと。そこはすごく大きな違いになってくるなと思います。

    物事を専門家が決める、あるいは官僚・政治家が決めるといった場合でも、それぞれが持っている視野、知恵や知識、価値観というのは、どうしてもその人たち個人のもの、あるいは専門分野に固有のものであって、それ以外の見方、それ以外の感じ方、考え方というものはなかなか見えてこないのですね。それぞれの枠を超えていくためには、やはり自分たちとは異質な人たち、異質な専門や、異質な生活、仕事をしている人たちと交わらないと見えてこない。そうしないとその政策というもの、あるいは政策を反映して出てくる科学技術の様々な技術・テクノロジーというものも非常に一面的なものになりがちです。そういう偏りを超えていくためには、自分たちとは異なる見方、考え方をする人たちと対話をすることが重要になってくると考えています。

    サイエンスショップは、もともとは大学の外部、例えばNGOとか行政から様々な依頼を受けて調査をするということがミッションなのです。今の日本の大学はいろいろ忙しくてこうした調査をすることが難しいので、もう少しサイエンスショップの役割を広げて、社会の中で中立的という信頼を得ている存在として、一般市民、様々な利害関係者、また専門家や行政や企業、そういう人たちとの対話の場を作る役割を果たす窓口として、サイエンスショップを機能させていきたいと考えています。



    社会の将来像について


    先程は政策を決めていくという意味で言いましたが、大上段に振りかぶった国の政策という場面ではなくても、他の場面でも物事を決めていく、考えていくという時には、自分の考え方の枠組みというものを超えていく必要があると思います。見方の違う、異なる人の見方や感じ方、考え方から学ばなければいけない。その意味では対話というものは、いろいろな場面で必要であろうと思います。さらに技術や科学に関する対話というものも、何かすごく整えられた場所、例えば行政が主催するだけではなくて、もっとリラックスした場、最近ではサイエンスカフェなども広まってきていますけれども、もっとリラックスして日常に近い場の中で技術や科学に関する対話、あるいはもっとくだけた形でいえば会話ですね、そういうことができるような、そういうことが広がるような社会であれば、技術や科学に対する人々の考え方や感じ方、さまざまな見方も育ってきて、それによって制度、あるいは世論が豊かになってくるのではないか、と考えています。それによって多角的な見方が出てくる。世論が成熟するのは、必ずしも何かひとつの意見・考え方に収斂していくことではなくて、技術に関しては賛成・反対というふうに二極に分かれてしまいがちですが、そうではなくて、その間の様々な考え方、その二極とは違う角度から物事を見るような、すごく多角的な考え方というものが出てくる。そういうことが社会としても文化としても豊かなことだと思います。そういう形で対話というものが広がるといいなと考えています。

    基本的には社会というものは、もともと多様な人間がいるので、発散していくことが当たり前だと思います。しかし、いざ政策を決めなければいけない時には何らかの形で収束させなければいけない、決めなくてはいけないわけです。決める前にできる限り意見の幅や考え方の幅というものを踏まえた上で、決めたほうがいいだろうと。社会自体は多様であることが当たり前で、決める時にはどこかでエイヤというふうに決める。その時にできる限り、その決定というものが社会の中で様々な見方、考え方をする人たちにとって受け入れられやすいもの、万が一その政策が失敗した場合でもその失敗というのが受け入れられやすいようなものにするためにも、多様な見方というものをまず政策の中に反映させる、入れていくと。もちろん全部反映しきれるわけではないですが、それをまず踏まえた上で政策を決めていくということが大事だと考えています。



    プログラムにおける教育方法について


    自分と見方の違う、考え方の違う人たちと対話する、議論する、それによって自分の見方や持っている限界、有効性、また、他の人が持っている見方や考え方の有効性を気づいていく。そうしたそれぞれ違う見方をうまく組み合わせ、活かしていくことで社会が成り立っていく、うまく動いていく。そういうことの、ひな形的なものが経験できる場というのを授業の中で作りたいと考えています。その意味では、授業であるひとつのテーマを与えて、その問題・テーマをそれぞれが持っている専門性やいろいろな見方・考え方を使って、多角的に分析して、議論して答えを探っていくという、そういう形での作業ができる授業を考えています。

    学生に期待することは、自分と違う見方や考え方に触れることでワクワクできる人、それを楽しめて、そういう異なる見方から学んだり、自分が変わっていける人、またそのために人の話を聞くのが好きな人、そういう学生たちに来てもらえたらなと考えています。

    いきなり対話するのは難しいと思います。いきなり対話の場で一緒に顔を合わせても、最初はケンカになるとかいろいろ議論にならないと思うので、まずはそれぞれの場の考え方の中で、違う見方を学んでみるという姿勢を作ってみることです。あるいは実際に賛成・反対という人たちが議論する場合、以前にあるところで実際に行ったのですが、あえてクローズドにしてしまう。外部からはそこで誰がどういう発言をしたかがわからないような場、本音がぶっちゃけられるような、本音を出して議論できるような場を作ってみる。そうするとそれぞれが自分たちの立場に縛られない、少し自由な考え方ができるようになるということはあるだろうと考えています。

    実社会だと、生活だったり仕事だったり、いろいろな立場・利害を背負っているので、柔軟になりにくい立場にそれぞれがあると思います。それに対して学生の場合はまだまだそういう現実社会の利害をそんなに背負っていないので、学生のほうが議論しやすいでしょうね。

    今回政策のための科学では、エビデンス、証拠というものを非常に重視しています。今までの科学技術政策では、科学技術の政策に限らずですが、エビデンスというものを重視しないで、政策というものが決められてきたという背景、それに対する反省として生まれてきたという部分があって、それは非常に大きなプラス・前進だと思うのですね。それと同時に、エビデンスというものをすごく狭くとってしまって、それこそ客観的に何らかの数字として、数量化して出てくるようなものだけをエビデンスとしてとらえてしまうと狭くなってしまう可能性がある。そういうものだけではなくて、もう少しエビデンスというものを広くとって、さまざまな対話の活動であるとか、必ずしも直接的な対話ではないとしても、社会の側で人々がそれぞれの立場・それぞれの考え方で、どういう見方・どういう価値観で、科学技術に対してどういう期待を持っていたり、反対・懸念を持っていたりするのか、そうしたものをうまく言語化して、それを実際の政策の中に使っていく、というようなエビデンスの使い方、あり方もあると思います。量的なエビデンス、数量的なエビデンスに対して、質的なエビデンスというものも同時に活用できるようにしていくことが重要かなと考えています。英語で言えば、ウイットネス、証言、あるいは、オピニオンと言うことです。

    それ自体は日本の中でも様々な場所で行われてきた政策だと思います。例えば、地域社会の町づくり、地域の政策を何かしようとする時には、実際に住民たちが参加して、その意志決定に加わる。そこでさまざまな意見を出し合うことは、ローカルなコミュニティーでは割と行われてきました。そうしたものを、より大きい枠、国レベルでもできるようにする必要があるでしょう。さらに、例えばイギリス政府が行っている取り組みとして、パブリックコメントがあります。日本でもパブリックコメント自体は行っているのですが、日本のパブリックコメントは通常、こういう政策の案が出ています、これに対して動いて下さい、というだけです。

    例えばこの間も、食品中の放射性物質の基準案へのパブリックコメントがありました。いちおうコメントするための法律とか基準の案と、関連する資料というものは全部公開されていますが、単にこれについてコメントを下さいと投げかけるだけです。それに対してイギリス政府は、例えば気候変動・温暖化の問題に関して、そのパブリックコメントを募集する政府の側で細かく設問を作るのですね。この法案のここの部分はこういう意図で作られているけれども、これに対してみなさんはどう考えますか、ご意見下さいとか、20項目くらいに分けて設問を立てて、それぞれの設問に対して具体的に答えていくことで、その政策を作る側、決める側にとっても有用な情報が得られるし、意見を出す側の方もピンポイントで情報を出せる。そういうやり方をパブリックコメントで行っています。直接的な対話ではないですが、大きな意味での対話の形になっているわけです。そういう仕掛けもありうるだろうと思いますし、そういう形でエビデンスというものを作っていくこともできるということですね。



    対話の取り組みについて


    先ほど量的と質的とを分けましたが、こういう形だとその両方がミックスされるわけですね。例えば、ある法案の中のここの部分に関しては、これを肯定的にとらえている人がどれくらいの割合いるということも見えつつ、どういう考え方で答えているのか、どういう理屈、理由で賛成しているのか、あるいは反対しているのかというようなロジックの部分まで見えてきます。手間暇をかけてちゃんと行っていけばできるということです。

    また、社会の視点や人文社会科学の取り組みが重要だという例として、「ゴールデン・ライス
    という、遺伝子組み換え作物の中で有名な事例があります。ビタミンAの前駆体であるベータカロチンを多く含んだ黄色い色の米で、それゆえにゴールデン・ライスという名前がついているのですが、これは遺伝子組み換えで開発された新しい品種の米です。発展途上国でいまビタミンA不足のために多くの子供たちが失明したりしているのですが、そうしたビタミンA不足を解消するためにビタミンAをつくるベータカロチンを多く含んだゴールデン・ライスを開発して、これを途上国で普及させれば、お米を食べるだけでビタミンAが供給されて、失明の悲劇を減らすことができる。そういう、すごく善意のもとで開発されたものです。

    ところがこれに対しては様々な批判、いわゆる安全性の問題ではない形の批判があります。例えば、ビタミンAが不足している問題というのは、単純にビタミンAが不足しているだけではなくて、栄養素全般が不足している。その問題は、結局はビタミンA、ベータカロチンを含むような緑黄色野菜を作れるような農地が減ってしまっていることから来ている。緑黄色野菜を作って地元の人たちが食べるような国内生産消費用の農地が減らされる一方で、その分が、例えば先進国、日本やアメリカ、ヨーロッパに輸出する農作物や、花とかコーヒーなどの生産のために豊かな農地が振り分けられていて、そのために食料全般が不足して、ビタミンAも不足しているという状況が起きているわけですね。そうすると、単純に米だけを栽培してもあまり栄養不足・食糧不足全般の問題の解決にはならない。しかも不足しているのはビタミンAだけではないので、それだけでは解決にならない。ビタミンAが不足しているのなら、ビタミンAを補給できるような米を作ればいいだろうという一対一的な発想ではなくて、本来取り組むべきはもっと多面的に、技術的な開発だけではなくて、その社会のあり方、国の農業政策であったり、あるいは先進国との関係であったり、それは解決しづらい問題ではあるのですが、そうしたところから取り組んでいかなければ本当の問題解決にはならない。そういうことを考えるためにも、このゴールデン・ライスの例は技術の可能性を語ってくれると同時に、その大きな限界・偏りというものも学べる重要な事例です。