FONT SIZE :
成果物

瀬戸山晃一・招聘教授



法哲学と「政策のための科学」について
求める人材とは



法哲学と「政策のための科学」について


私の専門は法律で、法律の中でもとりわけ法哲学、法理学といわれる分野を研究してきました。その分野では、法とは何か、法が追求すべき正義や平等、法が禁止すべき差別とは何かなど、様々な論争議論があるわけですね。その論争の背後にある理論対立、一口で言えば、どこまで個人の自由、自己決定を認めるべきなのか、それを法によって禁止する根拠は何なのかということを探究してきました。

現在、科学技術とりわけ生命科学技術の進歩というのはすごいピッチで進んでいます。みなさんもご存知のようにiPS細胞、ES細胞の研究によって再生医療の可能性が広がっています。また、人間の遺伝子を解明する、ヒトゲノム計画というものが2003年に完了して、現在人々の個別の遺伝情報と特定の疾患の関連性というものが解明されてきています。どんどん科学技術が進歩していく中で、科学技術が進歩しているという事実とそれをどこまで我々がアクセスし、利用していいのかという問題、それは、規範に関わる問題で、どこまで利用していいのかどうあるべきなのか、どこまで社会としてそれを規制していかなければならないのかという問題は別の問題な訳ですね。私は法学だけではなく、法と経済学、あるいは行動経済学、あるいは生命倫理の立場から、どこまで社会が、そういったどんどん進歩していく科学技術に対して規制を加えていくべきなのか、あるいは規制を加えないべきか、ということに興味があります。

私は父を小学生の時に亡くしました。その後、祖父母も中学高校のときに立て続けに亡くなって、思春期の時期に、死とは何か、病名を告知するべきかどうか、というような問題に興味を持つようになりました。大学に入ってゼミで、安楽死の問題などを扱って、特に生命倫理に興味を持ってきました。特に自由、自己決定に対して、どうして法が規制しなくてはいけないのか、本人自身のために本人の自由を規制する根拠は何か。例えば、父親や母親が高校生に向かって、「いい大学に行くために勉強しなさい。遊んだり、サークル活動したり、恋愛したりしてはいけません」と自由を制限する。これがパターナリズムの典型です。そのパターナリズムの根拠は何であって、そのパターナリズムはどこまで正当化されて、どこまで制限されなければならないのかというのが私の研究テーマでありました。

科学技術すべてそうかもしれませんが、生命科学技術の問題は、グローバルな問題です。日本社会だけの問題ではなくて、国境を越えた問題でありますね。法律というのは国とか地域によって限定されているので、一定の限界があるわけです。例えば日本で今禁止されている代理出産や、あるいは臓器売買も、海外でそれが可能な地域や国があれば、そこに行っておこなわれるわけです。そのような問題にどう対応していくのか、これは国際的な、グローバルな課題として取り組んでいかないといけない問題ですね。

もう一つは、生命科学技術というのは、我々だけではなくて我々の子孫、将来世代にすごく影響を及ぼす問題だということです。例えば、現在多数者で決めたことが、時系列で見たら必ずしも正しいとは言えないということも言えるのであって、そういう中で将来世代に決定的な影響を及ぼす科学技術のあり方に対して、どういった形で社会が規制をかけて、要するに法を用いて、規制をかけていかないといけないのかということを考えていかないといけないと思います。

通常、法というと国会で制定された立法を想定しますけれど、法律を改正するにはすごく時間がかかってしまう。その間に、社会はどんどん変わっていくわけですね。法というのは紙に書かれたもの、“Law in Book”ではなくて、我々法学者、法社会学者というのはむしろ、書かれた法よりも、それが社会でどういう風に運用されていって、どういう波及効果を持っているかに注目します。それは、“Law in Action”と言います。法があっても、それを実際に適用して判決文を書く、裁判というものが非常に重要になってくるわけですね。ただそれも、実際の問題が起きて、どういうふうに処理するかという事後的なものですので、政策は、その裁判の判決が持つ意味も考えないといけないし、問題が起きてからでは遅い問題もありますね。だから、事前にどう問題を予防するのか、解決するのか、それが正に法学者が探究する領域であるわけです。法律というのも、薬と同じように副作用があって、ある目的のための規制や禁止は、その目的は達成するかもしれないけれども、意図せざる結果として他の不都合を生んでしまうケースがあったりするわけですね。

例えば、女性を保護するために、育児休暇を法的に義務づけ、罰則を設けたとしますね。そうすると、確かにフルタイムで正規雇用として雇われている人にとってみれば、権利を保障されますけれども、例えば、女性を採用したら育児休暇を与えないといけないということになると、今度は採用段階での女性差別というのを助長することになります。そのように、法律というのは規制のかけ方によって、本来の目的とは逆の、意図せざる帰結を生んでしまう可能性もあるので、そういう規制をすることの問題性も科学技術を研究している人、あるいは社会の一般の人も意識していく必要があると思います。

また、法というのは、人間が作り出した制度であり、ルールです。しかし、我々の意識を無意識のうちに変えてしまう可能性もあるわけですね。具体的な例で言えば、1997年に脳死臓器移植法が制定された時、脳死を人の死とするかということに対して、かなりの抵抗があったわけですね。だから、法律では、脳死を必ずしも死としない、ということになったのですが、脳死臓器移植法ができてかなり時間がたった今は、人々の意識が変わって、脳死を人の死として認めることに対する抵抗は少なくなってきているわけですね。そのように法律というのは、人々の意識を変えるものでもあって、そういうことに対しても我々専門家だけではなくて、一般市民も、あるいは異分野の人たちも、敏感である必要があると思います。

科学技術の進歩という事実が我々の意識とか価値観を変えていく、また、その新しい価値観によって法とか制度が変えられていく。それがまた知らないうちに我々の意識を変えていく。この動的な関係に、常にセンシティブである専門家というのが正にこれから求められている人材ではないかと思います。



求める人材とは


私は大阪大学の大学院の博士課程で勉強した後に、アメリカの法科大学院で学びました。両方の大学院を見てきてつくづく思ったのは、アメリカの法科大学院は、ディスカッションをするような、インタラクティブな授業が多いわけですね。法律は我々が作って運用していくものですから、専門家によっても意見がすごく分かれます。判決でも、9人のアメリカの最高裁裁判官が5対4で分かれる時があります。日本でも、15人の最高裁裁判官が、7:8で分かれることもあるわけですね。そのように専門家の中でも意見が分かれる。また、学者の中でも意見が分かれる。なかなか答えが無い問題です。今、求められている我々の知的態度というのは、いろんな知識をカテゴリーに分けて、おさめていって理解するだけでは対応できなくなっている。そういった非常に難しい問題、特に生命科学技術をどう運用していくのか、どこまで認めるのか、というような将来世代に関わるような問題に対する規制というのはなかなか難しい問題ですね。

そういう難しい問題は、やはりいろいろ各分野の知を結集して対応していかないといけないと思うわけです。答えがなかなか出ない問題を考え抜く。考え抜くためのフレームワークやアプローチの仕方、また、様々なアプローチがあるということを学ぶ。それができないと真の意味で、適切な政策決定はできないので、そういったようなアプローチの仕方、視点というものを学生には学んでもらいたいと思います。

もう一つ、私がアメリカにいた時の授業は、ロースクールの教授と、薬学や医学の教授など、様々な専門家が一つの授業で一緒にディスカッションしていました。学生の方も、将来、法曹、すなわち裁判官、弁護士、検察官になる学生、医学研究者や医師になる学生、薬学の研究者や看護の研究者になる学生、看護の実務で働く学生など、様々な大学院生が一緒に授業するわけですね。どうしてこういった授業をするのかというと、そこで学生間の異分野のネットワークができるわけです。日本にはこういうものがない。今、私は法科大学院で授業していますけれども、法科大学院生だけに授業しています。だけど、あちらでは異分野の学生が混じることによって、お互いのネットワークができて、卒業後に、将来いろんな分野で活躍して、異分野の専門家と協働していろんな問題に取り組める。こういうことが授業の中から生まれてくるような授業やプログラムというのも、できる限りこの中で実践できたらいいなと思っています。