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成果物

小林傳司・教授



「政策のための科学」について
科学技術の倫理的・法的・社会的問題(ELSI)について
公共的関与(Public Engagement)について
テクノロジーアセスメントについて
熟議を組み込んだ参加型の議論の必要性
教育プログラムについて



「政策のための科学」について


これは「政策のための科学」と呼ばれていますが、それは略称で、正しくは「科学技術イノベーション政策における『政策のための科学』」といって、科学技術政策の中から生まれてきた話なのです。今までは科学技術政策というと、いかに科学技術を振興させるのかという、政策のことだといわれていたのですね。2011年4月から始まった第四期の科学技術基本計画において、科学技術政策は、単に科学技術の振興を目指すのではなくて、社会公共のための政策として考えるのだと、こういう言い方をしたわけです。考えてみれば、科学技術のための予算というのは税金をどんどん投入しているわけですから、その税金を使った研究というのがどのぐらい社会にとって価値を生んでいるのかという観点から、説明を求められる時代というのが来ているわけですね。国家財政がこれほど厳しくても、日本はずっと科学技術予算というのは頑張ってきたわけです。あまり減らさずに、逆に少しずつ増やすということを行ってきたわけですから、それが何のためかということが問われるという、そういう時代になっています。

今までは、科学技術政策というと、重点的にこの分野の振興をしましょうとか、この分野を発展させましょうという形で分野を決めていた。その分野は科学技術の専門分野という形で決めてきたわけですが、この第四期の計画ではそうではなくて、今われわれの社会が抱えている課題というものがあって、その課題を解決するにはどういうような分野の科学技術が動員されるべきか、そういう問題の立て方に切り替えたわけですね。

その中で、では科学技術政策をどうやって人々が納得する形で、理論的に整合的な政策が組めるのかということから、「科学技術イノベーション政策における『政策のための科学』」というプログラムが考えられてきたという背景があります。阪大と京大でこれから行っていくものは、今言ったような意味での政策のための科学を全部できるわけではないので、やはりその拠点の特色というものを出していかなければならないと思っています。



科学技術の倫理的・法的・社会的問題(ELSI)について


われわれが提案したのは、ELSIというものを中心としたプログラムです。ELSIとは、 “Ethical、Legal、Social Issues”のことで、倫理的、法的、そして社会的な論点ということです。科学技術がこれだけ発展してきますと、社会のいたるところに浸透していますので、自動的に科学技術の成果が社会に対して利益とか善なる効果、プラスの効果を生むというふうにはならなくなってきていて、予想しがたいようなマイナスの効果も出てきていますし、さまざまな問題も出てくる。だからそういうことをきちっと考えないと、科学技術をわれわれの社会はうまく使えないだろうと。これは最近だとライフサイエンスなどで非常に話題になっている問題群で、人間の遺伝情報を扱う、あるいは人間の身体そのものを実験的な研究によって改変する、そういうことが技術的にも理論的にも可能になってきているわけですが、やはり対象は人間ですので、その人間をいじるときにはさまざまな倫理的な配慮というものが要ります。

それから、そこで生まれてきた知識を社会で活用する時には、社会全体がその知識の有効性というか、そういうものが本当に社会にとってプラスになるとみんなが納得しなければ、研究者がいくら善かれと思っても、それだけでは知識というのはうまく使えないわけですね。そういうタイプの問題は、ライフサイエンスに典型的ですが、それ以外の分野でもいろいろと出てくるだろう、そこをどうするのかという問題があるのです。問題群としていえばELSIになりますし、そういう問題を社会の中でどういうふうに調整していくのかという考え方を説明すると、“Regulatory Science”という言い方になるかもしれません。

“Regulatory Science”というのは、通常「規制科学」と訳しますが、本来の意味は、科学的な厳密さでもって生み出される知識を、社会においてみんなが納得する社会的な正当性を持った形で使いこなすための調整のための学問、という意味です。その調整の一つの例として、ガイドラインとか規制、法律などが生まれてきますが、それは結果であって、全体の考え方としてはその“Ethical、Legal、Social Issues”を社会的な観点から考えて、そして科学の価値をどのように調整しながらうまく使えるようにしていくのかという問題の立て方になります。そういうことを考えた時に、具体的な手法としてどんなことを研究するのかというと、人文科学的な研究というものが当然あるわけですが、大事なのは研究の現場との距離感です。あまりにも研究の現場から遠いところで理屈だけこね回すというやり方はあまり意味がないし、研究者にとってもリアリティを感じてもらえないので、研究者が現実に研究している場面と向き合った形で人文社会科学的な研究をすることがプログラムの大事なポイントだと思っています。



公共的関与(Public Engagement)について


それからもう一つは、いま“Regulatory Science”ということで科学というものを社会の価値とどのように調整するのかという問題の立て方をしましたが、誰の声を聞いてその調整作業をするのかという時に、やはり社会の中で科学技術を使うわけですから、科学者の声だけというわけにはいかないですね。多様な社会の声というものをどのようにしてうまく聞き取っていくのかという作業もこれから必要になってくるでしょう。その多様な声の中にはいろいろなパターンがあって、消費者としての声もあるでしょうし、例えば患者というような形の声の出し方もあるだろうし、ユーザーとか、あるいはもっとつかみどころのない言い方ですけれども一般市民とかですね、そういうところでの声の出し方とか、様々な声の出し方がある。そういう様々な多様な声を科学者の声とすり合わせて政策的な、あるいは調整というか、社会的価値と科学的価値の調整の部分に向けて提案していくような、そういう活動をわれわれは “Public Engagement”(公共的関与)という言い方をしています。多様なセクターが政策の形成レベルに参加する、あるいは科学技術の評価に参加する、そういうこともこれから大事になってくるだろうし、この面は日本は欧米に比べてやや遅れ気味ですので、何とか日本の中で根づかせることも目指しています。

こういう分野に携わるようになった一番のきっかけは、イギリスに行ったことだと思います。科学哲学を勉強しにイギリスに行ったのですが、せっかく日本から来たのだから何か喋りなさい、と言われた時ですね。その時にイギリス人の書いた科学の論文はよく知っているのですが、日本の科学者とまともに話したことがなかった。日本の科学の現状を知らなかった。でもイギリス人はそれを聞きたがっている。あたりまえですね。その時に私は誰に向けて物事を考えて文章を書いていたのだろうな、とちょっと深刻に悩み、少し不安な気分になりました。

1993年頃ですが、その頃イギリスではBSE(牛海綿状脳症;Bovine Spongiform Encephalopathy)の問題が起きていました。遺伝子組み換えでも、もめていました。そういうことは連日新聞に載っているわけですね。ちょうど帰国する直前にコンセンサス会議という市民参加型のテクノロジーアセスメントの会議をイギリスが行おうとしていて、そのテーマは遺伝子組み換え農作物でした。それを見ながら、正直私は意味がわからなかった。つまり普通の市民を集めて、遺伝子組み換えというかなりテクニカルな技術的な話も市民に議論してもらう。専門家と討議してもらう。それに何の意味があるのか、まったく分かりませんでした。しかし、準備の様子とか、なぜこういうこと行っているのか、いろいろと聞いたり本を読んで調べたりしているうちに、「ああひょっとすると面白いかもしれない」と思いました。そのプロジェクトのチーフを務めているジョン・デュランという人間が、イギリスのテレビに出て、社会と科学技術の間の関係をもう一回契約で結び直す、“New Contract”という言い方で、テレビで説明していたのですね。つまり今までは専門家がよかれと思っていれば、その専門家に全部おまかせにしておけばよかった。だけどもこれからはそうではなくて、人々の声と専門家の意向との間で「新しい契約」をつくるという作業をしなければ、科学技術というのは社会の中でうまく使えないのだ、というメッセージを言っていたわけです。それを“New Contract”と言っていた。それが今も記憶に残っています。私はそれまで、そんなことを考えたこともなかったのですが、「面白いな」と思いました。



テクノロジーアセスメントについて


テクノロジーアセスメントを行っていない国というのは、先進国では日本ぐらいかもしれませんね。他の国はだいたい何らかの形で行ってきたわけで、なぜそれが要らないのか、という話になると思います。私はやっぱり要ると思いますね。原子力発電所などはまったくテクノロジーアセスメントができていなかったということの例だと思いますが、社会の中でこれだけ科学技術を使う時に、誰がそこまでやってくれと頼んだのかという問いが生まれやすくなっています。

1960年代くらいまでは、研究開発をしてそれが出てくるとみんな喜んでいました。「三種の神器」というものが爆発的に売れた時代に私は子供時代を過ごしました。工業製品というのはピカピカに輝いていましたね。今の学生に全然分かってもらえないのは、粉末のオレンジジュースと本当にみかんを搾ったジュースとを出されたら、当時の私は粉末ジュースの方が断然かっこよく見えていたという記憶があります。でも今の若い世代は絶対そう思わないですね。なぜそれがかっこよく見えていたのかというと、工業製品だったからです。でも今は逆ではないですか。ロハスとか、有機、天然とか。そちらのほうに価値観が動いていますね。そういう状況の中で、しかし現実は60年代どころか、はるかに科学技術に満ちあふれた生活をしているわけです。自然が満ちあふれていて、それこそ「ボットン」トイレで、不便で、という生活の中で科学技術とか工業製品に憧れを持って生きていた時代、そしてそれが達成されてしまって、ありとあらゆるところに科学技術が浸透していて、逆にそこから離れたような価値を高く評価したいというメンタリティが出てきている。この感覚の違いですね。前者の感覚というのは今の中国ですね。だからモノがほしいわけです。購買欲がものすごくある。でも今、日本人で50万円渡しますが絶対買いたいものは何ですか、と言われてみんなが欲しがるような商品はないではないですか。ほとんどみんな家の中にあるわけで、モノを減らしたいと思っているし、むしろ温泉旅行に行きたいとか、サービスの方に興味がある。そういう時代の中で、科学技術をわれわれがどう使うのかということはもう一回考え直すべきだと思います。

その時に、例えばライフサイエンスで、ひたすら寿命を延ばすという方向の技術だけを追求していいのか。多分われわれがこれから考えなければいけないのは、正しく死ぬ死に方なのですね。死亡確率が100%であるということは宿命ですから、そうするとうまく死んで行けるのかということにおそらく人々の関心は移っていくだろうと思いますね。研究もそういう部分がこれから必要になるかもしれないじゃないですか。つまりどういうことが社会にとっての課題で、どういう研究を社会が望んでいるのかを示すチャンネルを作って、そして研究者もそのチャンネルから出てきた声を尊重した研究をするという、そういう部分があってもいいのではないかということです。それはテクノロジーアセスメントの一種だと思います。今のままだと、研究者がよかれと思うことが本当に社会にとって良いことなのか、ということを全然チェックしていません。研究費だけがそこに注ぎ込まれていくという構造は、やはり見直す時期なのだろうと思います。ただ、これはすごく難しい問題です。



熟議を組み込んだ参加型の議論の必要性


具体的な活動ですが、結局日本で今まで社会の声を聞かなくてはいけないという時は、アンケート調査をしてきたのですね。あるいはパブリックコメントみたいなものが行われるのですけれど、数は多く取れるのかもしれませんが、そういう声を信用していいのかと言うことです。実は政策担当者も分かっています。例えばアンケート調査だと、事前によく考えたわけでもなくて反射的に丸をつけているだけだ、ということは、みんな分かっているわけです。それが10万人分集まったとしてもどうなのかという話です。パブリックコメントはパブリックコメントで、やはり動員合戦です。そういう構造をどうやって超えて、政策担当者が社会的に物事を決定する時に安心してというか、これは参考になる意見だよな、と言える意見をどうやって作り出すのかということなのだと思います。

政策のための科学の最大のポイントは、そういう管理政策を決めていく時に、どういうふうな根拠に基づいて決めればいいのかというところの根拠をまともにすることですから、その根拠として使えるような社会の声をどのように取り出すのかという問題にわれわれの拠点はひとつ課題を持つことになります。そのためにはある種の参加型の仕組みというものを、いろいろと実践もしてきたし日本で一番経験を蓄積している組織だと思いますから、それを実際適用して開発していくことだろうと思います。

熟議を組み込んだ参加型の議論をするということです。その手法はかなり開発されてきたので、あとは実際に実施してみて、出てきた結果をきちっと知的に加工して、社会の声として意志決定の時に使えるような、そういうものに組み上げることができるのかということが大事なポイントだろうと思います。



教育プログラムについて


大阪大学の場合には副プログラムや副専攻といった仕組みで、大学院生に対して自分の所属している専攻の教育や学習とは別に、一つのまとまった形の勉強をするようなものを取ることができるようになっています。ですからこのプログラムは、当面はまず副専攻プログラムという形で、様々な分野の専門を持っている学生たちに、科学技術が社会に対してどういう役割を果たすのかという観点からの教育を与えて、政策的な感覚を持ちながら、しかし理工系の専門家であり、人文社会系の専門家であるという、そういう人間をまず作る、ということを行おうと思っています。分野間をつなぐ人材を作りたいということですね。どうしても特定の専門しか知らないので、それが社会とどう関わっているのか、あるいは違う分野とどう関わらなくてはいけないのかという、そういうところをつなぐことが必要だという感覚を与える教育、分野に閉じこもって深く学ぶだけではなく、横に広がる、つながっていく、そういう感覚を持った人間をまず作るということですね。

専門家同士のつながりもすごく大事です。一つの専門分野を超えた研究プロジェクトは数多く出てきていますが、その時に研究分野間の「お作法」の違いをお互いに無自覚なままに一緒に研究をすると、けっこう厄介なことが起こるのですね。特に最近問題になっているのは、工学系とか理工系というのは人間をあまり扱ってこない研究をしてきたので、研究のお作法として、倫理的配慮というものに対する感覚はあまりシャープではないのですね。ところが医学系とか生命系というのは人間を扱ってきたので、IRB(治験審査委員会;Institutional Review Board)とか、研究の倫理性みたいなものを事前に審査し、研究する時もそれらを常に意識するということはかなり浸透している。しかし、一緒になった研究チームを作ると片方はその感覚がないということになって思わぬことを起こすこともあり得ます。そういう点でも分野間のお作法の違いというものが存在するということを、それぞれの分野の人間が知るということはものすごく大事です。日本では、そういう教育があまりできていない。

日本だけではないと思いますが、独特のシニカルな感覚というものがエリートには強い。一般市民とか専門家ではない人に対しては、その人たちの能力をかなり低めに見積もるという習慣がある。そして、パニックに対する恐怖感というのを非常に強く持っているので、本当のことを言ったらえらいことになるのではないかと考えて、言葉使いとか表現を丸くして、それによって何となくオブラートに包んだような形の情報提供をしたがるのですね。そのことのリスクをあまり考えていないなということです。

それはもう3.11の時によく分かったのではないですかと。あの時に中途半端にオブラートにくるんで、安全サイド側のほうの発言を言うことによって自分たちの信頼を本当に根底から傷つけたわけです。人々をどれくらい信頼するかという感覚、そこが問題だろうと思います。これはもちろん日本だけではなくて、他の国でも多かれ少なかれそういうことは起こりますが、そこの部分をもう少し変えないと。信頼が失われていることは、かなり大変なことです。信頼というのは二つの側面があって、能力がちゃんとあるのかという信頼もありますけれど、もうひとつはその人の意図ですね。「こいつはものすごく頭がいいけれども、悪い意図を持っている」という人間も世の中にいるわけですが、それと同時に「意図は良いけれど能力がない」というのも困るわけです。信頼というのはその両方の側面があるのですが、いま下手をすると能力も疑われ意図も疑われるということになりかねないので、そこは、よく言われる双方向性、ダイアログのようなものを入れていくこと以外に 信頼は回復しないだろうと思いますし、もう少し勇気を持って、取り組んでもらいたいと思いますね。研究者の中には、そういうことが大事だと思う人たちもだいぶ増えてきているような気がするので、そういう、次の世代を担う人たちをサポートして応援するというのも大事な仕事だと思っています。